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【古葉竹識のプロフィール】熊本からプロ野球の名将へ歩んだ経歴

水沢 茜 水沢 茜 • 更新: • 公開: • 読了約 17 分
目次

古葉竹識は1936年4月22日、熊本県に生まれました。右投右打の内野手で、遊撃手と二塁手を主なポジションとして活躍しました。

済々黌高校、専修大学を経て社会人野球の日鉄二瀬に進み、1958年に広島カープへ入団。プロ1年目から遊撃手として出場機会を得て、チームを支える存在になりました。

1963年には打率.339を記録し、巨人の長嶋茂雄と首位打者争いを展開。翌1964年には57盗塁で盗塁王を獲得しています。

その後も走塁能力を発揮し、1968年には39盗塁で2度目の盗塁王に輝きました。

日本野球機構(NPB)の個人年度別成績によると、現役通算成績は次のとおりです。


古葉竹識・選手プロフィール

古葉竹識



生年月日
1936年4月22日


出身地
熊本県


投打
右投右打


主なポジション
遊撃手・二塁手


プロ入り
1958年


野球殿堂入り
1999年

1,369


通算安打数


1501
試合


44
本塁打


263
盗塁


通算打率 .252・打点334。NPB公式記録に基づく。

南海ホークスへの移籍と引退

1969年まで広島でプレーした古葉は、1970年に南海ホークスへ移籍しました。

南海では1971年まで選手として在籍し、同年限りで現役を引退。翌1972年からは南海のコーチとして指導者の道を歩み始めます。

選手時代に培った守備力、走塁への理解、試合状況を読む能力は、後の監督としての采配にもつながっていきました。

古葉の野球人生で注目したいのは、選手として優れた実績を残しただけでなく、現役引退後に指導者として新たな才能を発揮したことです。

【広島カープ黄金期の真相】1975年初優勝から日本一3回を達成した理由

古葉竹識の名前を語るうえで最も重要なのが、広島東洋カープの第一次黄金期です。

監督就任前の広島は、長年にわたって優勝から遠ざかっていました。球団創設以来、セ・リーグの頂点に立った経験がなく、強豪球団とは言い難い状況でした。

そのチームを変えたのが、1975年途中に監督へ就任した古葉です。

1975年10月15日、球団初のリーグ優勝

1975年の開幕時、広島の監督はジョー・ルーツでした。

ルーツは赤いヘルメットの採用などチーム改革を進めましたが、シーズン序盤に退団。その後、守備コーチだった古葉が後任監督に就任しました。

就任時は39歳。シーズン途中からの指揮という難しい状況でしたが、選手の能力を生かしたチームづくりを進めます。

1975年10月15日、後楽園球場で巨人を破り、広島は球団創設26年目にして初のセ・リーグ優勝を達成しました。

この優勝は単なるスポーツの勝利ではありませんでした。長年優勝を待ち望んでいた広島のファンや市民にとって、球団の歴史を変える出来事だったのです。

日本のニュース解説メディアnippon.comも、1975年10月15日を広島東洋カープのセ・リーグ初制覇の日として紹介しています。

1979年・1980年の日本シリーズ連覇

1975年の初優勝後も、古葉はチームの強化を続けました。

1979年にはセ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは近鉄バファローズを破って球団初の日本一に輝きます。

翌1980年もリーグ優勝と日本シリーズ制覇を達成。日本一連覇という快挙を成し遂げました。

この時代の広島を象徴するのが、山本浩二、衣笠祥雄、江夏豊、高橋慶彦らの存在です。

投打の中心選手を軸に、走塁や守備でも相手を圧倒するチームが形成されました。

1984年にも日本一を達成

1984年、広島は再びセ・リーグを制覇。

日本シリーズでは阪急ブレーブスを破り、3度目の日本一となりました。

1979年、1980年、1984年という3度の日本シリーズ制覇は、古葉が率いた広島の黄金期を象徴する実績です。

11年間の監督在任中にリーグ優勝4回、日本一3回という結果を残しました。

【赤ヘル野球の正体】「耐えて勝つ」を支えた機動力とチームづくり

古葉野球を象徴する言葉が「耐えて勝つ」です。

これは、単に守備を固めて相手の攻撃を待つという意味ではありません。相手に先行されても崩れず、状況に応じて走塁や小技を使い、最後まで勝機を探す姿勢を表しています。

機動力を生かした攻撃的な野球

古葉監督の特徴は、走塁を重視した緻密な攻撃にありました。

ホームランだけに頼るのではなく、出塁した選手が次の塁を狙い、進塁打や犠打なども組み合わせて得点機会を増やす戦い方です。

広島アスリートマガジンに掲載された古葉の回想では、山本浩二と衣笠祥雄について、2人とも常に次の塁を狙う意欲があり、盗塁のサインを求めるほど積極的だったと振り返っています。

この姿勢が中心選手から控え選手まで広がり、チーム全体の攻撃意識を高めました。

山本浩二・衣笠祥雄との関係


広島の主軸打者として活躍。古葉野球の中心を担い、打撃だけでなく積極的な走塁でもチームを支えました。


山本浩二と並ぶ攻撃の中心選手。長打力に加え、次の塁を積極的に狙う姿勢で古葉の野球を体現しました。

2人は単に打線の中心だっただけではありません。

古葉の指導方針をグラウンドで実践し、周囲の選手にも積極性を広げる役割を担っていました。

高橋慶彦を育てた選手起用

もう1人、古葉のチームづくりを象徴する選手が高橋慶彦です。

高橋は当初、投手として入団しましたが、古葉はその俊足と肩の強さに注目し、内野手への転向を進めました。

さらにスイッチヒッターへの挑戦を促し、猛練習を重ねた高橋は遊撃手として成長。のちに広島の機動力野球を代表する選手になりました。

これは、既存の能力を評価するだけでなく、選手の将来性を見抜き、別の役割で才能を開花させた例です。

赤いヘルメットを導入したのは古葉監督なのか?

ここには誤解されやすいポイントがあります。

赤いヘルメットの導入を進めたのは、1975年の開幕時に監督を務めていたジョー・ルーツです。

古葉はその後を引き継ぎ、赤ヘル軍団の戦い方を確立していきました。

つまり、赤ヘルというビジュアル上の象徴を生み出した人物と、そのチームを黄金期へ導いた指揮官は、正確には別の人物です。

古葉の功績は、赤いヘルメットを採用したことそのものではなく、そのチームに機動力と緻密な戦術を浸透させ、勝てる集団へ成長させたことにあります。

【監督成績を徹底検証】通算873勝とリーグ優勝4回の実績

古葉竹識の監督成績を数字で見ると、その実績の大きさが分かります。

野球殿堂博物館や広島テレビなどの紹介資料によると、監督通算成績は1801試合、873勝791敗137分、勝率.525です。

広島で11年間、大洋で3年間指揮を執り、異なる球団で監督を経験しました。

古葉竹識の監督成績一覧
項目 成績・実績 広島監督 1975~1985年 広島でのリーグ優勝 4回(1975・1979・1980・1984年) 広島での日本一 3回(1979・1980・1984年) 大洋監督 1987~1989年 大洋での通算成績 162勝215敗13分 監督通算成績 1801試合・873勝791敗137分 通算勝率 .525 野球殿堂入り 1999年・競技者表彰

1975年の監督成績を見る際の注意点

1975年は古葉がシーズン途中に就任しています。

そのため、広島の年間チーム成績と、古葉個人が監督として指揮した試合の成績は同じではありません。

監督通算成績を確認するときは、チームのシーズン成績を単純に合計するのではなく、本人が実際に指揮した試合を基準にする必要があります。

この点を区別すると、複数の成績データで数字が異なって見える理由も理解しやすくなります。

監督としての評価を決定づけた1999年の野球殿堂入り

1999年、古葉は野球殿堂の競技者表彰で殿堂入りを果たしました。

現役選手としての盗塁王2回という実績に加え、監督として広島の黄金期を築いた功績が評価されています。

1980年には監督として正力松太郎賞も受賞しました。

単に優勝回数が多いだけでなく、チームの戦い方そのものを変えた指導者として評価されている点が特徴です。

【江夏の21球と大洋監督時代】名将の采配が示したもの

古葉竹識の監督人生を語るうえで欠かせない場面が、1979年の日本シリーズ第7戦で起きた「江夏の21球」です。

古葉監督と江夏豊がつかんだ球団初の日本一

1979年11月4日、広島と近鉄の日本シリーズ第7戦。

広島は4対3とリードして9回を迎えました。

マウンドには江夏豊。ところが、先頭打者の安打をきっかけに走者をため、無死満塁という絶体絶命の状況に追い込まれます。

古葉監督はブルペンで救援投手を準備させながらも、江夏に最後まで任せる判断をしました。

その後、江夏は代打・佐々木を三振に打ち取り、石渡のスクイズを阻止。最後も三振で締めくくり、21球で危機を脱しました。

この場面は、現在も日本プロ野球の歴史に残る名場面として語り継がれています。

古葉の判断で注目したいのは、選手を信頼することと、万一に備えて救援投手を準備することを両立させていた点です。

選手任せでも、監督の独断でもありません。状況を見極めながら最後の判断を選手に託した采配でした。

大洋ホエールズ監督時代は苦戦

1985年に広島監督を退任した古葉は、1987年に横浜大洋ホエールズの監督に就任しました。

現在の横浜DeNAベイスターズにつながる球団で、1987年から1989年まで3年間指揮を執っています。

しかし、広島時代のような優勝争いを実現することはできませんでした。

- 1987年:5位
- 1988年:4位
- 1989年:6位

3年間の通算成績は162勝215敗13分、勝率.430です。

この結果だけを見ると、広島時代と大洋時代では大きな差があります。

ただし、監督の能力は過去の実績だけで決まるものではありません。球団ごとの戦力、選手構成、育成環境なども勝敗に影響します。

広島で築いた機動力野球を、異なる環境でも同じように実現することが難しかった点は、監督という仕事の複雑さを示しています。

古葉竹識と関係者の相関関係

古葉のキャリアを理解するうえでは、選手や指導者との関係も重要です。

人物・組織 古葉との関係 主な出来事・役割
ジョー・ルーツ 前任監督 赤いヘルメット導入などを進め、1975年途中に退団
山本浩二 主力選手 黄金期の中心打者。積極的な走塁でもチームに貢献
衣笠祥雄 主力選手 山本とともに打線を支え、機動力野球を実践
江夏豊 主力投手 1979年日本シリーズ第7戦で江夏の21球を実現
高橋慶彦 育成した選手 内野手への転向やスイッチヒッターへの挑戦を支援
東京国際大学 指導者として所属 野球部監督を経て名誉監督に就任

【古葉竹識の晩年と現在】東京国際大学名誉監督から2021年の逝去まで

広島と大洋で監督を務めた古葉は、プロ野球の現場を離れた後も野球界との関わりを続けました。

特に注目されるのが、東京国際大学硬式野球部での指導です。

東京国際大学で若い選手を指導

古葉は2008年に東京国際大学硬式野球部の監督に就任しました。

2011年には東京新大学野球連盟の春季リーグで優勝。全日本大学野球選手権大会にも出場し、ベスト4までチームを導きました。

2016年には名誉監督に就任しています。

プロ野球で培った経験を大学野球の現場に伝え、次世代の選手育成にも力を注ぎました。

古葉竹識は2021年11月12日に逝去

逝去

2021年11月12日、古葉竹識は85歳で亡くなりました。

広島球団は同月16日に死去を発表し、報道各社が翌17日を中心に訃報を伝えました。

葬儀・告別式は近親者のみで執り行われています。

球団初優勝を実現し、日本一3回という実績を残した名将の訃報は、広島のファンや野球関係者に大きな衝撃を与えました。

2026年現在、古葉竹識は何をしている?

2026年11月現在、古葉竹識はすでに逝去しており、本人による新たな監督活動や発言はありません。

ただし、広島カープの歴史や1970年代から1980年代のプロ野球を振り返る際には、現在も重要な人物として取り上げられています。

特に2025年は1975年の初優勝から50年という節目に当たり、広島アスリートマガジンなどでも当時の古葉の指導や優勝の記憶が紹介されました。

2026年に古葉の名前を検索する読者にとって、押さえておきたいのは、現在の活動状況ではなく、彼が残した球団史と野球界への影響です。

【古葉竹識に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:古葉竹識は現在も存命ですか?

2021年11月12日に85歳で亡くなっています。2026年現在は故人です。

Q2:古葉竹識の監督通算勝利数はいくつですか?

通算873勝です。1801試合を指揮し、791敗137分、勝率.525を記録しました。

Q3:広島カープを何回優勝させましたか?

セ・リーグ優勝は4回です。1975年、1979年、1980年、1984年に優勝しています。日本シリーズでは1979年、1980年、1984年に日本一となりました。

Q4:古葉竹識は南海ホークスでもプレーしていましたか?

はい。1958年から1969年までは広島、1970年から1971年までは南海でプレーしました。1971年に現役を引退しています。

Q5:古葉竹識は盗塁王を何回獲得しましたか?

2回です。1964年に57盗塁、1968年に39盗塁を記録してタイトルを獲得しました。

Q6:「江夏の21球」と古葉竹識にはどのような関係がありますか?

1979年の日本シリーズ第7戦で、古葉は九回のピンチを迎えた江夏豊に続投を託しました。江夏は21球で無死満塁の危機を切り抜け、広島の球団初の日本一に貢献しました。

Q7:古葉竹識は野球殿堂入りしていますか?

はい。1999年に野球殿堂の競技者表彰で選出されました。現役選手としての実績と、広島の黄金期を築いた監督としての功績が評価されています。

Q8:東京国際大学ではどのような役職に就いていましたか?

2008年に硬式野球部監督に就任し、2011年には全日本大学野球選手権大会でベスト4に進出しました。2016年には名誉監督に就任しています。

古葉竹識は、選手として盗塁王2回を獲得した俊足の内野手であり、指導者として広島カープの歴史を変えた名将でした。

1975年の球団初優勝、1979年と1980年の日本一連覇、1984年の3度目の日本一。これらの実績は、広島の第一次黄金期を象徴しています。

その強さを支えたのは、「耐えて勝つ」という姿勢と、走塁を重視した機動力野球でした。

山本浩二、衣笠祥雄、高橋慶彦、江夏豊らの能力を引き出し、個人の力をチーム全体の強さに変えていったことも、古葉の大きな功績です。

また、広島退任後も大洋や東京国際大学で指導を続け、野球界に長く携わりました。

2021年11月12日に85歳で逝去した古葉ですが、その監督成績とチームづくりの考え方は、今も広島カープの歴史を振り返る際の重要な基準になっています。

古葉竹識の最大の功績は、優勝回数だけではありません。勝つことが難しかったチームに明確な野球の方針を与え、選手の力を引き出し、広島を全国に知られる強豪へ変えたことです。

2026年に改めてその足跡を振り返る意味は、そこにあります。

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水沢 茜
デジタルマーケター 水沢 茜
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アイドルと音楽シーンを担当。公式サイトのスケジュール、リリース情報、本人の発表を照合してから構成しています。

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