江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の子孫は、2026年現在も血縁という形で受け継がれています。徳川慶喜は明治時代の静岡で10男11女をもうけ、その子どもたちは徳川家だけでなく、池田家や伏見宮家、勝海舟の家系など、さまざまな名家へとつながりました。現在の徳川慶喜家では、第五代当主の山岸美喜氏が家の歴史と祭祀、歴史資料の継承に取り組んでいます。
その系譜を理解するには、子どもたちの名前だけでなく、早世が続いたことをきっかけに里子に出された経緯、正室・美賀子と側室たちの関係、そして明治35年(1902年)に創設された徳川慶喜家と徳川宗家の違いを知る必要があります。2026年に公刊された山岸美喜氏の著書や本人の寄稿も踏まえ、慶喜の子孫が現在どのような形で歴史を受け継いでいるのかを整理します。
【2026年最新】徳川慶喜の子孫は現在どうなっている?第五代当主の存在

徳川慶喜の子孫について調べると、現在の当主として名前が挙がるのが山岸美喜(やまぎし・みき)氏です。2026年現在、徳川慶喜家の第五代当主を務めています。
山岸氏は1968年東京都生まれ。祖父は徳川慶喜の孫にあたる徳川慶光で、山岸氏自身は慶喜の玄孫(やしゃご)、つまり孫の孫にあたります。
注目すべきなのは、山岸氏が徳川姓ではないことです。徳川慶喜家の当主だからといって、必ずしも徳川姓を名乗るとは限りません。血縁関係と、家の祭祀や歴史的な役割を引き継ぐ立場は別のものだからです。
第五代当主への継承が決まった経緯山岸氏の前に徳川慶喜家の第四代当主を務めたのは、徳川慶朝(とくがわ・よしとも)氏です。
慶朝氏は2017年に亡くなりました。その際、親族の中でも特に親しかった姪の山岸氏を、遺言によって後継者に指名しました。
ただし、当主を引き継ぐことは単なる名前の継承ではありません。祖先の法要を取り仕切り、墓所を管理し、歴史資料を守るという祭祀継承の責任も伴います。
KADOKAWAが2026年6月に刊行した山岸氏の著書『葵の紋を継ぎまして。』によると、山岸氏は2025年10月24日付で第五代徳川慶喜家当主となりました。
この継承には親族間の調整も必要で、正式な祭祀継承者となるまでには長い時間を要しました。山岸氏は、叔父から託された家の整理という課題にも向き合っています。
子孫がいなくなったわけではないここで誤解しやすいのが、徳川慶喜家の「家じまい」と、慶喜の血筋そのものが途絶えることを同じ意味で捉えてしまうことです。
山岸氏が進めているのは、歴史的な家としての継承や祭祀、墓所、資料の管理を整理する取り組みです。これは徳川慶喜の血を引く人々が全員いなくなるという意味ではありません。
2026年8月には、山岸氏が婦人公論.jpへの寄稿で、慶喜家の墓じまいや家じまいに取り組む理由を紹介しています。徳川慶喜家の歴史を残すことと、家としての役割を次世代に引き継がないことは、両立し得る問題として扱われています。
【徳川慶喜家系図】父・徳川斉昭から続く血筋と徳川宗家との違い
徳川慶喜の子孫を理解するには、まず慶喜自身がどの家に生まれ、どの家を継いだのかを整理する必要があります。
慶喜は天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれました。母は有栖川宮織仁親王の王女である吉子女王です。
幼名は松平七郎麻呂。幼少期には父の教育方針によって水戸で育ち、弘道館などで学問や武芸を修めました。11歳のときに一橋家の養子となり、後に徳川姓を名乗って江戸幕府第15代将軍に就任します。
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」でも、慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の子として紹介されています。つまり、慶喜の血筋は水戸徳川家に始まり、将軍家、一橋家、そして明治時代に創設された徳川慶喜家へと複雑につながっています。
徳川斉昭と徳川慶喜は親子関係徳川斉昭は水戸藩第9代藩主で、幕末の政治にも大きな影響を与えた人物です。慶喜はその七男でした。
斉昭は慶喜の優秀さを早くから認めていたとされ、他家への養子縁組を急がず、長男・徳川慶篤の控えとして手元に置こうと考えていた経緯も伝えられています。
その後、慶喜は一橋家を継ぎ、政治的な立場を強めていきました。父と同じく、幕末の徳川家を代表する存在となったのです。
徳川家達と徳川慶喜の関係は実の親子ではない検索時に混同されやすい人物が、徳川家達(いえさと)です。
徳川家達は慶喜の実子ではありません。御三卿の一つである田安徳川家の徳川慶頼の三男で、幼名は亀之助といいました。
慶喜が大政奉還後に将軍職を退き、徳川宗家の家督を譲ることになった際、家達が養子として迎えられました。慶応4年(1868年)に徳川宗家を相続し、第16代当主となっています。
重要なのは、慶喜が後に10男11女をもうけるより前に、宗家の継承者を家達に定めていた点です。徳川家達は徳川宗家の継承者であり、徳川慶喜家の初代当主ではありません。
徳川宗家と徳川慶喜家の違い両者の違いは、将軍家の家督を継ぐ本家と、慶喜自身が明治時代に創設した別家という関係にあります。
- 徳川宗家:江戸幕府の将軍家につながる本家。慶喜の後を徳川家達が継いだ。
- 徳川慶喜家:慶喜が明治35年に宗家から独立して創設した公爵家。七男の慶久が後を継いだ。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、徳川宗家と徳川慶喜家は別の家として整理されています。
そのため、徳川慶喜の血筋を調べる場合には、宗家の歴代当主と慶喜家の歴代当主を混同しないことが大切です。
【子供の名前一覧】徳川慶喜の10男11女と子孫につながる人物
徳川慶喜は、明治時代の静岡で10人の男子と11人の女子をもうけました。
幕末の政治的混乱から離れ、静岡で生活していた時期に家族が増えていきました。子どもたちは、徳川家のほか、さまざまな華族や旧大名家へ嫁いだり、養子に入ったりして、幅広い家系につながっています。
徳川慶喜の10人の男子- 長男:敬事(けいじ)
- 次男:善事(ぜんじ)
- 三男:琢磨(たくま)
- 四男:徳川厚(とくがわ・あつし)
- 五男:池田仲博(いけだ・なかひろ)
- 六男:斉(ひとし)
- 七男:徳川慶久(とくがわ・よしひさ)
- 八男:寧(やすし)
- 九男:徳川誠(とくがわ・まこと)
- 十男:勝精(かつ・くわし)
- 長女:鏡子(きょうこ)
- 次女:金子(かねこ)
- 三女:鉄子(てつこ)
- 四女:筆子(ふでこ)
- 五女:脩子(しゅうこ)
- 六女:良子(よしこ)
- 七女:浪子(なみこ)
- 八女:国子(くにこ)
- 九女:経子(つねこ)
- 十女:糸子(いとこ)
- 十一女:英子(ひでこ)
なお、慶喜と正室・美賀子の間には、これらの明治期の子女とは別に、江戸時代の安政5年(1858年)に女児が生まれています。しかし、生後5日で早世しました。
子孫の系譜を広げた重要人物21人の子ども全員が同じ家を継いだわけではありません。養子縁組や婚姻によって、それぞれ異なる家の歴史に関わるようになりました。
特に注目したいのが、次の人物です。
徳川慶久は七男で、父の創設した徳川慶喜家の第二代当主となりました。徳川慶光、徳川慶朝へと続く家系の出発点となった人物です。
池田仲博は五男で、池田家の養子となりました。鳥取池田家の第14代当主となり、侯爵としても活動しました。
勝精は十男で、勝海舟の家系に婿養子として入りました。徳川家の血筋が勝家にもつながったことを示す人物です。
経子は九女で、伏見宮博恭王の妃となりました。徳川家と皇室に近い宮家との関係を示す存在です。
英子は十一女で、徳川圀順の夫人となりました。
こうした婚姻や養子縁組を通して、慶喜の子孫は徳川家だけにとどまらない広がりを持つことになりました。
徳川慶久は長男ではなく七男ここは検索上の大きな誤解の一つです。「徳川慶喜の長男は徳川慶久」と紹介されることがありますが、正確には違います。
慶喜の実の長男は敬事です。敬事は明治4年(1871年)に生まれ、翌年に早世しました。
徳川慶久は七男です。父の家督を継いだため、徳川慶喜家の歴代当主を調べると最初に名前が出てきますが、出生順と家督継承順は別のものです。
この違いを理解すると、徳川慶喜の子どもたちの系図がより正確に読み取れます。
【里子に出した理由】徳川慶喜が子どもを庶民の家庭に預けた背景
徳川慶喜の子どもたちに関するエピソードの中でも、特に珍しいのが里子の習慣です。
将軍経験者であり、後に公爵となる人物の子どもが、植木屋や米穀商、石工など一般庶民の家庭で育てられたという事実は、当時の華族社会の生活を考えるうえでも興味深いものです。
最初の子どもたちに早世が相次いだ静岡時代の初期、慶喜には明治4年(1871年)に長男の敬事と次男の善事が生まれました。しかし、2人とも翌年までに亡くなっています。
さらに明治5年(1872年)に生まれた三男の琢磨も、翌年に早世しました。
幼い子どもを相次いで失ったことから、慶喜はその後の子どもたちの育て方を変えるようになりました。
最初に里子に出されたのは長女・鏡子明治6年(1873年)に生まれた長女・鏡子は、伊勢屋元次郎という庶民の家庭に里子として預けられました。
その後、明治21年(1888年)に生まれた十男・勝精に至るまで、早世した子どもを除く子女が、植木屋や米穀商、石工などの家庭に預けられたとされています。
預けられた期間は、おおむね3年弱から4年強ほどでした。
なぜ庶民の家庭だったのか当時は、裕福な家庭で過保護に育てるよりも、一般家庭で生活習慣を身につけ、ある程度厳しく育てた方が丈夫に成長するという考え方がありました。
慶喜がこの考え方を取り入れた背景には、最初の3人の男子を幼くして亡くした経験があったと考えられます。
実際に、その後は成人まで成長する子どもが増え、慶久や仲博、経子など、後の家系を担う人物も育ちました。
ただし、里子に出された後もすべての子どもが成人したわけではありません。六男の斉や五女の脩子、六女の良子など、幼くして亡くなった子どももいます。
里子という選択は、現代の子育て感覚だけでは理解しにくいものです。しかし、子どもの健康を願い、当時の生活環境や養育観の中で選ばれた方法だったことが分かります。
【正室・側室の関係】美賀子、一色須賀、新村信、中根幸の役割
徳川慶喜の家族を理解するうえで、正室と側室の区別も欠かせません。
特に混同されやすいのが、正室の美賀子と、慶喜の身近に仕えた一色須賀、そして明治時代に子どもをもうけた新村信・中根幸の関係です。
正室・一条美賀子美賀子は、もともと今出川公久の娘で、一条忠香の養女となって慶喜に嫁ぎました。
安政2年(1856年)12月3日に結婚しています。当初、慶喜は一条忠香の娘との婚約が予定されていましたが、相手が天然痘を患ったため、養女となった美賀子が嫁ぐことになった経緯があります。
美賀子との間には安政5年に女児が生まれましたが、わずか5日で亡くなりました。その後、静岡時代に生まれた10男11女は、美賀子との間に生まれた子どもではなく、側室との間に生まれた子女です。
一色須賀は美賀子の元侍女一色須賀(いっしき・すが)は、美賀子に仕えていた元侍女です。
維新後は慶喜家の老女として家政を支え、家族の生活や屋敷の管理に関わった人物として伝えられています。
慶喜の側室として紹介されることもありますが、子どもたちの系譜を調べる際には、新村信や中根幸と混同しないことが重要です。10男11女の生母として整理されているのは、新村信と中根幸の2人です。
側室・新村信と中根幸新村信(にいむら・のぶ)と中根幸(なかね・さち)は、明治期の慶喜の家庭を支えた2人です。
新村信は七男・慶久や五男・仲博、十男・精などの母として知られています。徳川慶喜家の継承につながる慶久を育んだ人物でもあります。
中根幸は四男・厚や九男・誠などの母です。娘たちの中には、蜂須賀家や松平家、大河内家、四条家へ嫁いだ人物もいます。
このように、正室・美賀子、元侍女の一色須賀、側室の新村信と中根幸は、それぞれ異なる役割を持っていました。
人物ごとの関係を整理| 人物 | 慶喜との関係 | 家系上の重要事項 |
|---|---|---|
| 徳川斉昭 | 実父 | 水戸藩主。慶喜は七男。 |
| 一条美賀子 | 正室 | 安政2年に結婚。女児1人は早世。 |
| 一色須賀 | 元侍女・老女 | 美賀子の元侍女。維新後は慶喜家を支えた。 |
| 新村信 | 側室 | 七男・慶久などの母。 |
| 中根幸 | 側室 | 四男・厚、九男・誠などの母。 |
| 徳川家達 | 養子 | 徳川宗家第16代当主。慶喜の実子ではない。 |
| 徳川慶久 | 七男 | 徳川慶喜家第二代当主。 |
| 山岸美喜 | 玄孫 | 2025年10月24日付で第五代当主となった。 |
この関係を押さえておけば、慶喜の家族構成や子孫の系譜を調べる際に、母親や家督継承者を取り違えることが少なくなります。
【明治35年に創設】徳川慶喜家の歴代当主と公爵位の継承
徳川慶喜家が正式に創設されたのは、明治35年(1902年)6月です。
それまで慶喜は、徳川宗家から独立した家を持つ立場ではありませんでした。明治維新後は徳川宗家を継いだ家達の戸籍に入り、静岡で生活していました。
その後、明治30年(1897年)に東京へ移り、明治35年に宗家から分家して新たな家を創設。同時に公爵の爵位を授けられました。
公爵位は七男・慶久へ慶喜は明治43年(1910年)12月、七男の徳川慶久に家督を譲って隠居しました。
慶久は第二代当主となり、公爵家を引き継ぎます。しかし、大正11年(1922年)1月に37歳で急逝しました。
その後を継いだのは、慶久の子である徳川慶光です。当時わずか8歳だったため、母の實枝子が家を支える立場となりました。
徳川慶喜家の歴代当主- 初代:徳川慶喜(1837~1913年)
- 第二代:徳川慶久(1884~1922年)
- 第三代:徳川慶光
- 第四代:徳川慶朝(2017年没)
- 第五代:山岸美喜(2025年10月24日付で当主となる)
なお、1947年5月の日本国憲法施行に伴い、華族制度が廃止され、徳川公爵家としての制度上の歴史は終わりました。ただし、親族による家の継承や祭祀、資料の管理はその後も続いています。
慶喜家の現在は「家じまい」の段階へ2026年の徳川慶喜家を語るうえで欠かせないのが、山岸美喜氏が進めている家じまいです。
第四代当主の徳川慶朝氏は、生前から家を閉じることを考えていました。その理由の一つが、歴代当主の墓所や膨大な歴史資料を維持する負担です。
慶喜家の墓所は東京都台東区の谷中霊園にあり、約300坪の敷地を持っています。徳川慶喜だけでなく、歴代当主や美賀子、側室の新村信・中根幸、老女の一色須賀なども眠っています。
この墓所は東京都の史跡指定を受けているため、一般的な墓じまいのように墓石を撤去して更地に戻すことはできません。
また、山岸氏が向き合っているのは墓所だけではありません。慶喜家に伝わる約6000点の歴史資料についても、適切な保存先を探す必要があります。
共同通信は2025年12月31日、山岸氏が祖先を祭る祭祀承継権を上野東照宮へ移す方向で調整していると報じました。上野東照宮は徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜を祭神とする神社です。
2026年8月に公開された山岸氏の本人寄稿でも、墓所の管理や家じまいの難しさが語られています。
この取り組みは、徳川慶喜家を単に消滅させるという話ではありません。歴史的価値のある墓所や資料を、個人や親族だけの負担にせず、将来にわたって保存するための継承方法を探す動きでもあります。
【プロの結論】徳川慶喜の子孫を調べるなら血筋と家督を分けて考える
徳川慶喜の子孫を理解するうえで、最も大切なのは、血縁関係と家の継承を同じものとして扱わないことです。
慶喜には10男11女がおり、その子どもたちは徳川慶喜家だけでなく、池田家、勝家、伏見宮家などにもつながりました。つまり、慶喜の子孫という言葉には、徳川慶喜家の歴代当主だけでなく、娘や息子を通じて広がった多くの家系が含まれます。
一方、徳川宗家は家達が継承しました。慶喜が明治35年に創設した徳川慶喜家とは別の家系です。
また、慶喜の長男は敬事であり、慶久は七男です。慶久が第二代当主になったことから、出生順と家督継承順が混同されることがあります。
そして2026年現在、徳川慶喜家の第五代当主である山岸美喜氏は、家じまいと墓じまい、歴史資料の保存に取り組んでいます。これは血縁の消滅ではなく、歴史的な家としての役割をどのように終え、記録を残すかという課題です。
徳川慶喜の子孫を調べる際には、次の3点を判断基準にすると理解しやすくなります。
- 血筋を調べる:慶喜の10男11女と、それぞれの子孫を確認する。
- 家督を調べる:徳川宗家と徳川慶喜家の歴代当主を分けて整理する。
- 現在を調べる:山岸美喜氏の当主就任と、2026年時点の家じまい・祭祀継承の動きを確認する。
【徳川慶喜の子孫】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川慶喜の子孫は2026年現在もいる?
A1:います。徳川慶喜の血を引く子孫は複数の家系につながっています。徳川慶喜家の第五代当主は、慶喜の玄孫にあたる山岸美喜氏です。
Q2:徳川慶喜の子どもは全部で何人?
A2:静岡時代に10男11女、合計21人をもうけました。また、正室・美賀子との間には、それ以前に生まれて5日で亡くなった女児がいたとされています。
Q3:徳川慶喜の長男は徳川慶久?
A3:違います。長男は敬事で、翌年に早世しました。徳川慶久は七男で、明治43年に父の家督を継いだ第二代徳川慶喜家当主です。
Q4:徳川慶喜はなぜ子どもを里子に出した?
A4:最初の3人の男子が幼くして亡くなったことが背景にあります。庶民の家庭で生活させ、丈夫に育てようという当時の考え方を取り入れたためです。
Q5:徳川家達は徳川慶喜の実子?
A5:実子ではありません。田安徳川家出身で、慶喜の養子となって徳川宗家第16代当主を継いだ人物です。
Q6:徳川慶喜家と徳川宗家は同じ?
A6:別の家です。徳川宗家は徳川家達が継承し、徳川慶喜家は1902年に慶喜が宗家から独立して創設しました。
Q7:現在の徳川慶喜家はなくなるの?
A7:第五代当主の山岸美喜氏が家じまいを進めています。ただし、これは慶喜の血筋が途絶えるという意味ではありません。墓所や歴史資料、祖先の祭祀をどのように保存・継承するかが課題になっています。
徳川慶喜は明治時代に10男11女をもうけ、その子どもたちはさまざまな名家へとつながりました。七男の徳川慶久が家督を継ぎ、徳川慶喜家という独立した家の歴史を築いたことも要点です。
一方、徳川宗家は養子の徳川家達が継承しており、両者は別々の系譜を歩んできました。
2026年現在、徳川慶喜家の第五代当主・山岸美喜氏は、先祖から受け継いだ墓所や約6000点の歴史資料を未来へ残すため、家じまいに取り組んでいます。
最後の将軍という歴史的な肩書だけでは見えてこない、慶喜の父親としての一面、子どもたちの人生、そして家名を守ってきた人々の歩み。徳川慶喜の子孫の歴史は、江戸幕府の終焉後も続いた徳川家のもう一つの歴史なのです。
主な参考資料
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」「あの人の直筆」
- 松戸市戸定歴史館「徳川公爵家のバックヤード―最後の家令の見た半世紀」
- 文藝春秋PLUS、山岸美喜氏「徳川慶喜公の墓じまい」(2026年1月)
- KADOKAWA『葵の紋を継ぎまして。』(2026年6月刊)
- 共同通信「徳川慶喜家、墓じまい」(2025年12月)
- 婦人公論.jp、山岸美喜氏による2026年8月の寄稿
- Japanese Wiki Corpus「徳川慶喜」家族・親族資料