幕末の志士・坂本龍馬の写真は、現在も多くの人を魅了している。桂浜の銅像のモデルになった有名な立ち姿の写真をはじめ、ブーツを履いて椅子に座る姿、海援隊士と並ぶ集合写真など、龍馬の生前の姿を伝える貴重な肖像が残されている。しかし、坂本龍馬の写真は全部で何枚あるのか、何種類確認されているのかについては、意外と知られていない。
高知県立坂本龍馬記念館の公式FAQでは、龍馬の写真を便宜上6種類に分類している。一方、同館スタッフが2022年に紹介した解説記事では7種類とされており、数え方には違いもある。撮影者についても、長崎の写真家・上野彦馬だけでなく、その弟子だった土佐出身の井上俊三が撮影したという説が存在する。加えて、写真の原板が高知県立歴史民俗資料館に所蔵されていることも要点だ。
【結論】坂本龍馬の写真は何枚ある?現在確認されている6種類の全貌

坂本龍馬の写真について、最初に押さえておきたいのは「写真の種類」と「現存する写真の枚数」は同じではないという点だ。
高知県立坂本龍馬記念館の公式FAQでは、写真の現存枚数を断言することは難しいと説明したうえで、肖像の種類を6種類に分類している。
これは、同じ構図の写真が複数存在するためだ。例えば、桂浜の銅像のモデルとなった立ち姿の写真では、ガラス湿板の原板に加え、鶏卵紙に焼き付けた写真も複数確認されている。
また、坂本龍馬は親しい人物に写真を渡していたとされる。そのため、現在知られている所蔵品だけで、当時作られた写真のすべてを把握できているわけではない。
6種類と7種類、どちらが正しいのかここで注意したいのが、資料によって6種類と7種類という異なる数字が登場することだ。
高知県立坂本龍馬記念館の現在公開されているFAQでは、写真Aから写真Fまでの6種類を紹介している。一方、2022年6月14日に公開された同館スタッフによる解説記事では、龍馬の姿が写る写真は7種類と説明されている。
後者の記事では、立ち姿の写真を含む7種類について、コロジオン湿板方式で撮影されたものと説明し、残る6種類は鶏卵紙に焼き付けられた写真や昔の印刷物として紹介している。
ただし、両資料の数字の違いについて、追加の1種類が何を指すのかは明確に説明されていない。したがって、現段階で確実に整理できるのは、公式FAQが示すA〜Fの6分類である。
写真を数える際には、同じ構図の別プリント、原板、後年の複製、絵はがきなどを区別する必要がある。単純に「6枚」あるいは「7枚」と理解すると、実際の資料状況を見誤ってしまう。
撮影されたのは何歳の頃だったのか高知県立坂本龍馬記念館によると、6種類の写真は、いずれも慶応元年(1865年)から慶応3年(1867年)頃に撮影されたと推測されている。
龍馬は天保6年(1836年)生まれで、慶応3年(1867年)に亡くなった。写真が撮影された時期は、数え年で31〜33歳頃に当たる。
つまり、現在広く知られている龍馬の肖像は、若い頃から晩年までを網羅したものではない。幕末の政治情勢が大きく動き、龍馬が海援隊などを通じて活動していた時期の姿が中心となっている。
【写真A〜Fを完全整理】坂本龍馬の代表的な6種類と所蔵状況
高知県立坂本龍馬記念館のFAQでは、龍馬の写真をA〜Fに分類している。それぞれの構図や写真の状態、現在確認されている所蔵状況を整理すると、次のようになる。
| 分類 | 写真の特徴 | 写真の状態・確認されている所蔵状況 |
|---|---|---|
| 写真A | 立ち姿。桂浜の銅像のモデル | ガラス湿板原板と鶏卵紙2枚が確認されている。原板は高知県立歴史民俗資料館所蔵。紙焼きの1枚は伊藤家所蔵、もう1枚は行方不明。 |
| 写真B | 椅子に座り、ブーツを履いた姿 | 鶏卵紙1枚。現在の所蔵者は公式FAQに記載なし。 |
| 写真C | 伊藤助太夫と使用人との3人の写真 | 鶏卵紙1枚。現在の所蔵者は公式FAQに記載なし。 |
| 写真D | 上半身だけを写した写真 | 鶏卵紙1枚は所在不明。複写されたとみられるものが3枚ある。 |
| 写真E | 海援隊士と撮影した集合写真 | 鶏卵紙1枚が所在不明。 |
| 写真F | 縁台に座った姿 | 鶏卵紙2枚。下関市立歴史博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有している。 |
最も有名なのが、龍馬が台に寄りかかって立っている写真Aだ。
袴姿で片足を前に出し、落ち着いた表情で正面を見据える構図は、現在の龍馬のイメージを形作った代表的な肖像である。高知県の桂浜にある坂本龍馬像も、この写真をモデルとして制作されたことで知られる。
この写真の大きな特徴は、撮影に使われたガラス湿板の原板が現存していることだ。高知県立歴史民俗資料館が真物を所蔵しており、同館の展示資料にも坂本龍馬湿板写真として紹介されている。
紙焼きについても2枚以上が確認されている。1枚は伊藤家に所蔵され、もう1枚は現在所在が分からない。
原板と紙焼きの両方が確認できることから、写真の歴史を研究するうえでも重要な資料となっている。
写真B:ブーツを履いて椅子に座る龍馬写真Bは、椅子に腰掛け、ブーツを履いた龍馬の姿を捉えたものだ。
立ち姿の写真と同様、幕末の洋装文化を象徴する肖像として興味深い。龍馬が西洋の文化や技術に関心を持っていた人物であることを、視覚的に伝える資料でもある。
この写真は鶏卵紙に焼き付けられた1枚が確認されている。ただし、現在の公式FAQには具体的な所蔵者の記載はない。
写真C:伊藤助太夫と使用人との3人写真写真Cは、龍馬が伊藤助太夫と使用人とともに写った3人の写真である。
単独の肖像とは異なり、龍馬が周囲の人々とどのような関係を築いていたのかを考える手掛かりになる。
こちらも鶏卵紙に焼き付けられた写真が1枚確認されている。
写真D:上半身だけを写した肖像写真Dは、龍馬の上半身を中心に写した写真である。
現在確認されている情報では、元の鶏卵紙写真1枚が所在不明となっている。一方、その写真を複写したと考えられるものが3枚残されている。
ここで重要なのは、複写物が複数存在することと、撮影時に作られたオリジナルが複数存在することは別問題だという点だ。
写真E:海援隊士と一緒に写る龍馬写真Eは、龍馬が海援隊士と一緒に撮影した集合写真である。
海援隊は、龍馬が幕末に結成・運営に関わった組織であり、商業活動や政治活動、海運などに関係した。写真Eは、龍馬の活動を個人の肖像だけでなく、周囲の仲間とのつながりから考えるうえで興味深い資料である。
ただし、オリジナルとされる鶏卵紙写真1枚は所在不明となっている。
写真F:縁台に座った龍馬写真Fは、縁台に座った龍馬を写した写真である。
背景には菊の花が見られ、記念館の解説では秋頃に撮影された可能性が指摘されている。額の生え際などの特徴から、ほかの写真より後の時期に撮影された可能性も考えられている。
撮影場所については福井説がある。龍馬が福井を訪れた際に撮影されたのではないかという見方だが、研究者の間でも意見が分かれている。
写真の現存状況については、鶏卵紙2枚が確認されている。高知県立坂本龍馬記念館のFAQによると、下関市立歴史博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有している。
【撮影者の真相】上野彦馬の写真館と井上俊三撮影説を検証
坂本龍馬の写真を語るうえで欠かせない人物が、長崎の写真家・上野彦馬である。
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」によると、上野彦馬は1838年生まれ、1904年没の写真家で、日本の写真術の草創期を代表する人物だ。坂本龍馬や高杉晋作など、幕末の志士たちの写真を撮影したことで知られる。
上野彦馬が開いた長崎の写真館「上野撮影局」上野彦馬は、文久2年(1862年)、長崎の中島川畔に写真館「上野撮影局」を開業した。
長崎県の文化財データベースによると、上野はオランダ海軍軍医ポンペやスイス人写真師ロシエから写真術を学び、幕末から明治にかけて写真館を営業した。また、多くの門人を育てたことでも知られている。
当時、写真を撮影するには、写真師が開いた撮影局へ出向くか、写真師自身を招く必要があった。現在のように誰もが気軽に撮影できる時代ではない。
そのため、龍馬の写真に共通する背景や撮影用の小道具は、撮影場所を特定する重要な手掛かりとなる。
高知県立坂本龍馬記念館のFAQでは、写真Aの寄りかかる台が上野彦馬のスタジオの特徴と一致すること、さらに写真A・B・Cの手前に同じ段差が見られることなどを根拠として、上野撮影局で撮影された可能性を説明している。
井上俊三とは何者?立ち姿の写真を撮影した人物なのかここで浮上するのが、土佐藩出身の写真師・井上俊三である。
井上俊三は上野彦馬の弟子だった人物で、立ち姿の龍馬写真のガラス原板が、かつて井上家に残されていたことが分かっている。
高知県立坂本龍馬記念館が2022年に紹介した解説記事では、この原板の構図に余計な光が入り、天井まで写っている点にも触れている。こうした撮影上の特徴や原板の来歴から、上野本人ではなく、弟子の井上が実際に撮影したのではないかという説が紹介されている。
同館の常設展示解説でも、立ち姿の写真について「上野彦馬のスタジオで、土佐の井上俊三が撮影したといわれる」と説明されている。
つまり、撮影場所が上野彦馬の写真館であることと、シャッターを切った人物が上野本人であることは、必ずしも同じではない。
この区別が、坂本龍馬写真の撮影者をめぐる議論の核心となっている。
ガラス原板が失われずに残った経緯立ち姿の写真の原板が残った背景には、井上家からの発見と、その後の保管の経緯がある。
高知県立坂本龍馬記念館が紹介した解説によると、昭和12年(1937年)、高知の郷土史家・武市佐市郎が井上家から龍馬や山内容堂、後藤象二郎のガラス原板を発見し、武市家に引き取った。
その後、昭和20年(1945年)の高知大空襲で井上家に残されていた写真資料は焼失したとされる。
もし武市佐市郎による発見と引き取りがなければ、龍馬の立ち姿を伝える貴重な原板も失われていた可能性がある。
現在、この原板の真物を所蔵しているのは高知県立歴史民俗資料館である。高知県立坂本龍馬記念館の常設展示では複製が紹介されている。
【本物の見分け方】ガラス湿板写真と鶏卵紙の違いを知る
坂本龍馬の写真を本物かどうか判断する際には、人物の顔だけでなく、写真が作られた技術や資料の来歴にも注目する必要がある。
幕末の写真は、現在のデジタルカメラとは異なる方法で制作されていた。特に重要なのが、コロジオン湿板法と鶏卵紙という2つの技術である。
コロジオン湿板法とは?ガラスに画像を定着させる幕末の写真技術コロジオン湿板法は、19世紀半ばに普及した写真撮影技術である。
ガラス板にコロジオンと感光性の薬品を塗り、乾燥する前に撮影と現像を行う。撮影から現像までの工程を、原板が湿っているうちに進める必要があった。
この方法では、ガラス板に画像が記録される。ガラス原板は、使い方や処理によってネガとしても、黒い背景を利用してポジのようにも鑑賞できる。
立ち姿の龍馬写真が特別視される理由の一つは、撮影時に使われたガラス原板そのものが現存していることにある。
鶏卵紙とは?紙焼き写真に残された龍馬の姿鶏卵紙は、卵白を紙の表面に塗布して作る写真印画紙で、アルビューメン・プリントとも呼ばれる。
卵白に含まれる成分を利用して感光性を持たせ、ガラスなどのネガから紙に画像を焼き付ける技術だ。19世紀後半に広く使われ、幕末から明治期の写真にも多く見られる。
東京都写真美術館の写真史解説でも、コロジオン湿板法と鶏卵紙の組み合わせが、幕末明治期の写真文化を支えた技術として紹介されている。
龍馬の写真では、原板だけでなく、親しい人に渡された鶏卵紙の写真も重要な存在となっている。
本物を判断するための5つの確認ポイントインターネット上で龍馬の古写真を見つけた場合、次の5点を確認すると、資料としての信頼性を考える手掛かりになる。
1. 所蔵先が明確か
高知県立歴史民俗資料館、下関市立歴史博物館など、具体的な所蔵先が示されているかを確認する。所蔵機関の資料目録や公式解説と照合することが基本となる。
2. 撮影技法と支持体が説明されているか
コロジオン湿板なのか、鶏卵紙なのか、後年の印刷物なのかを確認する。写真の見た目だけで幕末のオリジナルと決めつけないことが大切だ。
3. 撮影背景や小道具が一致するか
立ち姿の写真では、寄りかかっている台やスタジオの段差が撮影場所を考える材料になっている。写真A・B・Cなどとの比較も参考になる。
4. 原板や紙焼きの来歴が確認できるか
誰が保管し、どのような経緯で現在の所蔵先に移ったのか。所有者や保管履歴が説明されている資料は、信頼性を判断するうえで重要だ。
5. 既知の6種類との比較ができるか
写真A〜Fの構図や人物の特徴と比較する。既存の肖像と似ているだけでは本人の写真と断定できないため、複数の証拠を組み合わせる必要がある。
なお、写真の色味や傷、画質だけで本物と偽物を断定することはできない。後年の複写や印刷によって、見た目が大きく変わる場合もあるからだ。
【フルベッキ写真の真相】坂本龍馬が写っているという説は本当なのか
坂本龍馬の写真を調べていると、必ずといってよいほど話題になるのが「フルベッキ写真」である。
大勢の人物が一堂に会した幕末の集合写真で、明治維新を代表する人物たちが勢ぞろいしているという説明とともに紹介されることがある。
しかし、この写真に坂本龍馬が写っているという説については、高知県立坂本龍馬記念館が否定的な見解を示している。
フルベッキ写真とは何か一般にフルベッキ写真と呼ばれるのは、「フルベッキ博士と佐賀藩・長崎致遠館の研修生たち」とされる集合写真である。
写真に写るフルベッキは、オランダから宣教師として来日したグイド・ヘルマン・フリドリン・フルベッキだ。
高知県立坂本龍馬記念館のFAQによると、フルベッキは元治元年(1864年)8月から長崎外語伝習所で英語や科学を教え、慶応2年(1866年)6月には佐賀藩が設立した長崎致遠館の教師に就任した。
写真は、佐賀藩の青年たちが学んでいたフルベッキ博士が江戸へ赴任する際、送別の意味を込めて撮影されたものと説明されている。
なぜ坂本龍馬や西郷隆盛が写っているといわれたのかこの写真が注目される理由は、写っている人物に幕末・明治維新の著名人の名前が次々と当てはめられてきたことにある。
坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通など、歴史上の重要人物が集合した写真として紹介されることがあり、歴史ファンの関心を集めてきた。
しかし、集合写真の人物に有名人の名前を付けることと、その人物が実際に写っていることは別問題である。
高知県立坂本龍馬記念館の公式FAQでは、写真に写る人物の名前について、フルベッキ博士とその子ども以外は信憑性が極めて低いとの評価を示している。
龍馬本人の写真と比較すると何が分かるのか同館が根拠として挙げているのが、実際に龍馬と確認されている写真との比較だ。
龍馬は慶応2〜3年頃、上野彦馬の撮影局で複数の写真を撮影している。これらの肖像とフルベッキ写真に龍馬とされる人物を比較すると、姿が大きく異なるという。
加えて、同館の解説では、写真が撮影された時期や上野彦馬のスタジオの状況にも疑問が示されている。広い写場が増築されたのは明治2年(1869年)とされ、元治元年当時には存在していなかったという指摘もある。
こうした事情を踏まえると、フルベッキ写真を坂本龍馬の肖像として扱う根拠は乏しい。
フルベッキ写真は幕末の歴史を伝える貴重な集合写真だが、坂本龍馬が写っているとする説は、同館の公式解説では信憑性が極めて低いと評価されている。
【2026年最新】坂本龍馬の写真は現在どこに所蔵されている?見学できる施設も紹介
龍馬の写真を実際に見たい場合、まず確認したいのが高知県内の2つの博物館だ。
特に立ち姿のガラス湿板原板は、写真そのものの歴史的価値が高く、原板と複製を区別して理解することが重要になる。
高知県立歴史民俗資料館:立ち姿のガラス湿板原板を所蔵高知県立歴史民俗資料館は、坂本龍馬の立ち姿の写真に使われたガラス湿板原板の真物を所蔵している。
同館の公式展示紹介では、坂本龍馬湿板写真を幕末の資料として掲載し、慶応2年(1866年)に長崎で撮影された写真と説明している。
ここで押さえておきたいのは、ガラス原板の所蔵先と、一般に流通している紙焼き写真の所蔵先は異なるということだ。
また、展示紹介には複製と明記された資料もある。実物の原板と展示用の複製を混同しないようにしたい。
高知県立坂本龍馬記念館:肖像の解説と複製展示高知県立坂本龍馬記念館は、龍馬の生涯や関連資料を紹介する施設であり、肖像写真の研究や解説を知るうえでも重要な場所だ。
常設展示では、龍馬肖像写真原版(ガラス湿板)の複製を紹介している。井上俊三撮影説や上野彦馬の撮影局に関する説明もあり、写真の成立過程を理解する手掛かりになる。
また、立位写真の使用に関する申請案内も公開されている。写真を出版物や映像などで利用したい場合には、所定の手続きが必要となる。
下関市立歴史博物館と東京龍馬会写真Fの縁台に座った肖像については、下関市立歴史博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有していることが、高知県立坂本龍馬記念館のFAQで紹介されている。
このように、龍馬の写真は高知県内だけに残されているわけではない。親しい人物に渡された写真が、各地の博物館や関係団体などに伝わっている。
2026年に注目したい上野撮影局の新たな写真史資料2026年の写真史に関する動きとして注目されるのが、長崎県の文化財データベースに掲載された「上野撮影局写真帖」である。
同資料は、元治元年(1864年)から慶応3年(1867年)頃に上野撮影局で撮影された写真を中心に、鶏卵紙の焼付写真187枚を収めた写真帖だ。
長崎県の文化財データベースには、令和8年(2026年)3月26日の文化審議会答申に関する情報が掲載されている。
写真帖には武士や民衆、外国人などの人物写真に加え、幕末期の長崎の風景も収録されている。上野彦馬本人の撮影だけでなく、門人が撮影したとみられる写真も含まれているという。
この写真帖の187枚は龍馬の写真の枚数を示すものではない。しかし、龍馬の肖像が撮影された時代の写真館の活動や、写真の制作・保存の実態を知るうえで重要な資料となる。
幕末の写真は、個々の肖像だけでなく、写真師の仕事や弟子たちの活動、当時の長崎の社会状況と結び付けて研究することで、さらに多くの情報を読み取れるようになる。
【プロの結論】坂本龍馬写真の真相を理解するために知っておきたい3つの視点
坂本龍馬の写真をめぐる情報は、肖像の種類、撮影者、所蔵先、偽物説など多岐にわたる。これらを整理すると、特に重要なのは次の3点だ。
1. 写真の枚数と種類を混同しない龍馬の写真は6種類と紹介されることが多いが、これは高知県立坂本龍馬記念館の現在のFAQに基づく分類である。
同じ構図の紙焼きが複数存在したり、原板が残っていたりするため、写真の種類と物理的な写真の枚数は一致しない。
また、2022年の同館スタッフによる解説では7種類とされている。こうした数字の違いを理解するには、写真の分類方法と複製の扱いを確認することが欠かせない。
2. 撮影場所と撮影者は分けて考える龍馬の写真の多くは長崎の上野彦馬の撮影局で撮られたと考えられている。しかし、撮影局を利用したことが、すべて上野本人の撮影を意味するわけではない。
立ち姿の写真に関しては、井上俊三が撮影したという説がある。原板が井上家に残されていたことや、撮影構図の特徴などが、その説を考える材料となっている。
写真師の名前を一人に限定して理解するよりも、撮影場所、撮影技術、原板の来歴をそれぞれ検討することが、より正確な写真史の理解につながる。
3. 写真の価値は人物の珍しさだけではない立ち姿の写真の価値は、龍馬本人が写っていることだけにあるわけではない。
幕末のコロジオン湿板技術を伝えるガラス原板が現存し、さらに紙焼きとの関係も研究できる点に、写真史上の大きな意義がある。
武市佐市郎による原板の発見と保管の経緯も、歴史資料がどのように受け継がれてきたかを示す重要な事例だ。
写真は歴史上の人物の姿を記録するだけでなく、その時代の技術、文化、人々の交流、資料保存の歴史まで伝えている。
坂本龍馬の写真に関するよくある質問(FAQ)
Q1:坂本龍馬の写真は全部で何枚ありますか?
A1:現存する写真の総枚数を正確に断言することは難しい。高知県立坂本龍馬記念館の現在のFAQでは、代表的な写真を6種類に分類している。2022年の同館スタッフによる解説では7種類と紹介されているため、数える際には分類方法の違いにも注意が必要だ。
Q2:坂本龍馬の立ち姿の写真を撮影したのは誰ですか?
A2:長崎の上野彦馬の撮影局で撮影されたと考えられている。実際の撮影者については、上野彦馬本人のほか、弟子だった土佐出身の井上俊三が撮影したという説がある。井上家にガラス原板が残されていたことなどが、その説の背景にある。
Q3:坂本龍馬の写真の本物は現在どこにありますか?
A3:最も有名な立ち姿の写真のガラス湿板原板は、高知県立歴史民俗資料館が所蔵している。同館の展示資料にも坂本龍馬湿板写真が紹介されている。紙焼き写真については伊藤家所蔵や所在不明のものなどがあり、写真ごとに状況が異なる。
Q4:フルベッキ写真に坂本龍馬は写っていますか?
A4:高知県立坂本龍馬記念館の公式FAQでは、フルベッキ博士とその子ども以外の人物名の信憑性は極めて低いと説明されている。龍馬の既知の肖像との比較などから、龍馬が写っているという説を裏付ける根拠は乏しい。
Q5:坂本龍馬の写真を実際に見られる場所はどこですか?
A5:高知県立歴史民俗資料館では龍馬の湿板写真に関する展示資料を紹介している。高知県立坂本龍馬記念館では立ち姿の写真の複製や関連解説を確認できる。実物の原板が常時公開されているとは限らないため、来館前に展示状況を確認するとよい。
坂本龍馬の写真は、単に有名な立ち姿の肖像だけではない。椅子に座った写真、伊藤助太夫らとの3人写真、海援隊士との集合写真、縁台に座った姿など、複数の構図が確認されている。
高知県立坂本龍馬記念館の現在のFAQでは6種類に分類されているが、2022年の解説では7種類とされている。写真の種類と実際に現存するプリントの枚数を分けて考えることが、正確な理解への第一歩だ。
撮影者については、長崎の上野彦馬の撮影局が重要な舞台となっている。特に立ち姿の写真には、弟子の井上俊三が撮影したという説があり、写真の原板が井上家に伝わっていた経緯も興味深い。
加えて、ガラス湿板原板の真物が高知県立歴史民俗資料館に所蔵されていることは、龍馬の肖像写真を研究するうえで大きな意味を持つ。
フルベッキ写真についても、歴史上の著名人が集まった写真という印象だけで人物を特定することはできない。実際の龍馬の肖像との比較や、撮影時期・撮影場所に関する史料が重要となる。
坂本龍馬の写真を正しく理解する鍵は、人物の顔だけを見るのではなく、原板・写真技法・撮影者・所蔵先という4つの要素を総合的に確認することにある。今後、新たな写真資料や研究成果が公表されれば、現存する肖像の種類や撮影経緯について、さらに詳しい事実が明らかになる可能性もある。
幕末の一枚の写真には、龍馬の姿だけでなく、日本の写真文化が生まれた時代の記憶も刻まれている。
主な事実確認資料
- 高知県立坂本龍馬記念館「龍馬FAQ」・常設展示解説
- 高知県立坂本龍馬記念館スタッフ解説(2022年6月14日)
- 高知県立歴史民俗資料館「総合展示室」
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像・上野彦馬」
- 東京都写真美術館「日本初期写真史 関東編」
- 長崎県文化財データベース「上野撮影局写真帖」