ザ・グレート・カブキは、本名を米良明久(めら・あきひさ)といい、1948年9月8日に宮崎県延岡市で生まれた元プロレスラーです。歌舞伎を思わせる顔面ペイント、赤や緑の毒霧、ヌンチャクを組み合わせた独特のスタイルでアメリカのプロレス界を席巻し、「東洋の神秘」と呼ばれました。日本では1983年の全日本プロレスへの凱旋帰国をきっかけに人気が爆発。ジャイアント馬場やジャンボ鶴田と並ぶ知名度を獲得した異色のスターです。
2026年11月現在、78歳となったカブキは2017年に正式な引退試合を行い、2023年には長年経営してきた居酒屋も閉店しました。一方、2026年にはプロレス専門誌『Gスピリッツ』のインタビューに登場し、アメリカ武者修行時代の経験を振り返っています。今回は本名やプロフィール、リングネームの変遷、毒霧の誕生秘話、全日本プロレスでの活躍、グレート・ムタやTHE KABUKIとの関係まで、時系列に沿って解説します。
【本名は米良明久】ザ・グレート・カブキのプロフィールとデビューまでの経歴

ザ・グレート・カブキという名前からは、海外で生まれた外国人レスラーや、歌舞伎役者をルーツに持つ人物を想像する人もいる可能性があります。しかし、その正体は宮崎県出身の日本人レスラー、米良明久です。
デビュー当初は現在のような派手なペイントや毒霧とは無縁で、堅実なレスリングを持ち味とする選手でした。海外遠征でキャラクターを大きく変えたことが、後の世界的な成功につながります。
ザ・グレート・カブキの基本プロフィールまずは人物像を把握するため、基本的なプロフィールを整理します。
- リングネーム:ザ・グレート・カブキ(The Great Kabuki)
- 本名:米良明久(めら・あきひさ)
- 生年月日:1948年9月8日
- 出身地:宮崎県延岡市
- 職業:元プロレスラー、元レフェリー
- デビュー:1964年10月31日
- 正式な引退試合:2017年12月22日
- 代表的な異名:東洋の神秘
- 代表的な特徴:歌舞伎風ペイント、毒霧、ヌンチャク
学生時代は水泳や柔道に取り組んでいました。宮崎県延岡市で生まれた後、愛知県知立市に移り住んだ経歴もあります。
プロレス入りを志したのは10代の頃です。1963年には力道山のもとを訪ねて入門を希望し、その後、日本プロレスに入門しました。翌1964年10月31日、宮城県石巻市で山本小鉄を相手にデビューを果たします。
最初からスターだったわけではない若手時代の米良は、本名や高千穂明久の名前で試合に出場していました。出身地にちなんだ「高千穂」という名前は、日本プロレスの幹部だった芳の里によって付けられたものです。
当時のカブキは、派手な演出よりも試合運びや技術で評価される職人肌の選手でした。しかし、本人が後年のインタビューで振り返っているように、高千穂のままではレスラー人生を大きく変えることは難しかったといいます。
その状況を変えたのが、1970年から本格化するアメリカ遠征でした。日本とは異なる観客の好みや興行文化に触れた経験が、米良明久を世界的なキャラクターへと変えていきます。
【高千穂からザ・グレート・カブキへ】リングネームの変遷とアメリカ修行
カブキの経歴を理解するうえで欠かせないのが、海外遠征時代のリングネームの変化です。米良明久は一つの名前で活動し続けたわけではなく、遠征先や所属する団体、役割に応じて複数の名前を使用していました。
高千穂明久からヨシノ・サト、ミスター・サトへ1970年9月、米良はアメリカへ武者修行に出発します。最初はロサンゼルス地区でタカチホの名前を使い、日本人の善玉レスラーとして活動しました。
1971年にデトロイト地区へ移ると、師匠格だった芳の里にちなんだヨシノ・サト(Yoshino Sato)というリングネームを使用。ヒール、つまり悪役レスラーへと転向します。
その後もアメリカの各地域を転戦し、ミスター・サト(Mr. Sato)などの名前で活動しました。デビル・サトというリングネームも、カブキ以前の米国遠征時代を語る際に登場する名前です。
また、1973年以降のオーストラリア遠征ではヒト・トージョーという名前も使用しています。リングネームの変遷は、単なる名前の変更ではなく、異なる市場に合わせて自分の見せ方を変えていたことを示しています。
アメリカで積み重ねた実績海外修行は、単に日本とは違う試合を経験するためのものではありませんでした。米良はアメリカの各地域で試合を重ね、タッグ王座などの実績も残しています。
1972年にはミツ荒川とのコンビでNWF世界タッグ王座を獲得。フロリダ地区ではミスター・サイトーとのタッグでNWAフロリダ・タッグ王座にも就いています。
こうした経験によって、外国人選手としての立ち位置や観客の反応を理解し、ヒールとしての表現力を磨いていきました。
1981年、ザ・グレート・カブキが誕生転機は1981年初頭に訪れます。テキサス州ダラスを拠点とするWCCW(ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング)で、マネージャー兼ブッカーのゲーリー・ハートが新しいキャラクターを提案しました。
そのアイデアが、日本の歌舞伎役者をモチーフにした東洋的なペイントレスラーでした。
当初は長期的な看板キャラクターとして考えられていたわけではなく、次のスター選手が登場するまでの一時的な役割という構想もあったとされています。しかし、結果は予想を超えるものでした。
歌舞伎風の顔面ペイントと忍者のような衣装、独特の武器パフォーマンス、そして毒霧が観客の関心を集め、ザ・グレート・カブキはアメリカの人気ヒールへと成長していきます。
【東洋の神秘の正体】歌舞伎メイク・毒霧・ヌンチャクの誕生秘話
ザ・グレート・カブキをほかのレスラーと区別する最大の要素は、試合内容だけでなく、入場から退場まで一貫して作り込まれたビジュアルと演出です。
歌舞伎風の顔面ペイント、口から噴き出す毒霧、両手で操るヌンチャク。この三つが組み合わさることで、アメリカの観客にとって強烈な個性を持つ存在になりました。
歌舞伎風メイクはどのように生まれたのかキャラクターの原案を考えたのはゲーリー・ハートでした。歌舞伎役者の写真を米良に見せ、同じような格好でリングに上がれないかと提案したことが始まりです。
当初、ゲーリー・ハートは歌舞伎の隈取りをマスクのようなものと考えていたと、カブキは2023年のABEMA TIMESのインタビューで振り返っています。
そこで生まれたのが、顔に直接ペイントを施す方法でした。赤色には女性用の口紅、黒色にはアイラインを使うなど、身近な化粧道具から試行錯誤していったといいます。
また、2014年の週プレNEWSのインタビューでは、歌舞伎の細い隈取りをそのまま再現するのではなく、遠くの観客にも見えるように線を太くしたことを説明しています。
つまり、伝統芸能の忠実な再現というよりも、歌舞伎のイメージをプロレスのリングで最大限に生かすための独自のデザインだったのです。
毒霧の由来は試合後のシャワーだったカブキの代名詞といえば、やはり毒霧です。
赤や緑の霧を口から一気に噴き出す演出は、対戦相手の視界を奪うだけでなく、観客にも強烈な印象を残しました。現在ではプロレスの代表的な反則演出の一つとして知られています。
興味深いのは、その発想が計画的な技の開発ではなく、偶然の出来事から生まれたことです。
カブキ本人の説明によると、試合後にシャワーを浴びているとき、口に入った水を照明に向けて吹き上げたところ、光の中に虹のようなものが見えました。それを見て、色付きの霧をリング上で表現できるのではないかと考えたのです。
「おお、これだよ、これ!」
この発見から、白や黒、赤、青、黄色、緑など、さまざまな色を試すことになりました。最終的にリング上で特に美しく見えたのが、赤と緑だったと本人は語っています。
毒霧という名前から危険な毒物を連想する人もいますが、プロレスにおける毒霧は、対戦相手を驚かせるための演出技です。具体的な中身や仕込み方については、本人も詳しく明かしていません。
この偶然の発見が、後に世界中のレスラーに受け継がれる代名詞になったことは、プロレス史でも興味深いエピソードです。
ヌンチャクを使い始めた理由もう一つの特徴がヌンチャクです。
カブキは当初、日本刀を持って構える演出も試していました。しかし、剣を振るだけでは面白さに欠けると感じ、ヌンチャクを取り入れたと2022年のよろず〜ニュースの取材で説明しています。
加えて、一本だけでなく両手に持って操るスタイルを採用。観客の視線を集める入場パフォーマンスとして定着させました。
この演出が特に子どもたちの関心を集めたことも、カブキのキャラクターが幅広い層に浸透した理由の一つです。
なぜ「東洋の神秘」と呼ばれたのか「東洋の神秘」という異名は、カブキの外見とパフォーマンスを端的に表したものです。
当時のアメリカの観客にとって、日本の歌舞伎を思わせるメイク、忍者風の衣装、ヌンチャク、正体の分からない色付きの霧は、ほかのレスラーにはない異質な魅力を持っていました。
しかも、見た目だけの選手ではありません。カブキはもともと正統派のレスリング技術を持ち、アッパーカットやトラースキックなどの打撃技にも磨きをかけていました。
試合の中で実力を見せたうえで、毒霧やヌンチャクを繰り出す。このギャップがキャラクターに説得力を与えたのです。
東洋的な神秘性と本格的なレスリング技術。この二つを両立させたことこそ、カブキが一時的な色物キャラクターに終わらなかった理由です。
【1983年の全日本プロレス凱旋】ジャイアント馬場と日本での人気爆発
アメリカで人気を確立したザ・グレート・カブキが、日本で大きく注目される転機となったのが1983年2月の凱旋帰国です。
この帰国は、単なる海外遠征からの復帰ではありません。アメリカで完成したキャラクターを、そのまま日本のリングに持ち込む「逆輸入」という形で行われました。
ジャイアント馬場の帰国命令と佐藤昭雄の進言当時、全日本プロレスを率いていたのはジャイアント馬場でした。
1983年2月、馬場から帰国の指示が出たことをきっかけに、カブキは全日本プロレスの「'83エキサイト・シリーズ」に参戦します。
当時のブッカーだった佐藤昭雄は、アメリカで成功したカブキのキャラクターを日本でもそのまま登場させることを提案しました。
本人は当初、高千穂明久として日本に戻ることも考えていたとされます。しかし、アメリカでの知名度を生かすため、ザ・グレート・カブキとしての凱旋が実現しました。
1983年2月11日、後楽園ホールでの帰国第一戦日本での帰国第一戦は、1983年2月11日の後楽園ホール大会です。
対戦相手はジム・デュラン。カブキは独特の衣装で入場し、ヌンチャクを披露。毒霧や打撃技を織り交ぜて試合を展開し、勝利を収めました。
この登場は大きな話題となりました。特に、それまで高千穂明久として認識していた日本のファンにとって、海外でまったく異なるスターに変貌した姿は衝撃的でした。
2022年のよろず〜ニュースのインタビューでも、本人は帰国前には「カブキを見たことがない」と言われていたのに、帰国後は「高千穂だ」と気付かれたという当時の反応を振り返っています。
馬場やジャンボ鶴田に並ぶ人気を獲得凱旋後のカブキは、専門誌だけでなく一般誌や子ども向けの印刷媒体にも登場するなど、プロレスファン以外にも知られる存在になりました。
当時の経歴資料には、馬場が欠場していたにもかかわらず、エキサイト・シリーズがテレビ放映権料を除く興行収益で、全日本プロレス設立以来初の2月シリーズ黒字を記録したとも記されています。
この数字が示すのは、カブキの人気が一部の熱心なプロレスファンだけにとどまらなかったことです。海外で成功したキャラクターを日本市場へ持ち込むことで、新たな観客層を引きつけることに成功しました。
同年12月12日には、蔵前国技館で開催された世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦で、リック・フレアーが保持するNWA世界ヘビー級王座にも挑戦しています。
主要な経歴と関係人物を時系列で整理ここまでの歩みを、カブキ本人と関係者、後続レスラーとのつながりも含めて整理します。
| 時期 | 人物・出来事 | 関係・実績 |
|---|---|---|
| 1948年 | 米良明久 | 宮崎県延岡市に誕生 |
| 1964年 | 日本プロレス | 10月31日に山本小鉄戦でデビュー |
| 1970年 | アメリカ武者修行 | タカチホ、ヨシノ・サトなどで活動 |
| 1970年代 | ミスター・サト、デビル・サト | 米国の各地域でヒールとして活躍 |
| 1981年 | ゲーリー・ハート | カブキのオリエンタルギミックを考案 |
| 1983年2月 | ジャイアント馬場・佐藤昭雄 | 全日本プロレスへの凱旋帰国を実現 |
| 1989年 | グレート・ムタ(武藤敬司) | カブキの息子という設定でWCWに登場 |
| 1998年 | 最初の引退 | 後楽園ホールで引退興行 |
| 2002年 | 現役復帰 | 再びプロレス界で活動 |
| 2011年 | THE KABUKI | 隠し子という設定でタッグを結成 |
| 2017年 | 正式な引退 | 12月22日、ノア後楽園大会で引退試合 |
| 2023年 | グレート・ムタ最終試合 | 最後のリングパフォーマンス |
| 2026年 | Gスピリッツ | アメリカ遠征時代の回想インタビューを掲載 |
この年表から分かるのは、カブキの成功が突然生まれたものではないということです。日本での下積み、海外での経験、キャラクターの確立、そして逆輸入という段階を踏んで、長期的な人気を獲得していきました。
【グレート・ムタへの影響】THE KABUKIの息子説と本当の関係
ザ・グレート・カブキの名前を調べると、必ずといっていいほど登場するのがグレート・ムタとTHE KABUKIです。
どちらもカブキの「息子」という設定で語られたことがありますが、両者の関係や背景は異なります。ここを整理すると、ネット上で混同されやすい情報も理解しやすくなります。
グレート・ムタはカブキの実の息子なのかグレート・ムタは、プロレスラー武藤敬司が演じた別人格のキャラクターです。
1989年3月、アメリカのWCWに登場した際、カブキの息子という設定が用いられました。歌舞伎風のペイントや毒霧など、カブキのスタイルを受け継いだ存在として売り出されたのです。
ただし、これはプロレスのストーリー上の親子関係であり、実際の血縁関係を意味するものではありません。
2023年1月19日公開のABEMA TIMESのインタビューでは、カブキ本人がムタ誕生時の思いを語っています。息子という設定については、マネージャーのゲーリー・ハートが考えたアイデアだったと説明しました。
カブキは武藤の試合運びについても高く評価しており、観客の反応を見ながら試合を組み立てるセンスを称賛しています。
グレート・ムタに受け継がれたものカブキからムタに引き継がれた最大の要素は、単なる技ではなく、キャラクター全体の構築方法です。
- 顔面ペイント:通常のレスラーとは異なる視覚的な個性。
- 毒霧:試合展開を一変させる象徴的な演出。
- 不気味な存在感:言葉や表情だけに頼らないキャラクター表現。
- 入場演出:試合開始前から観客の期待を高める見せ方。
ムタはこれらを引き継ぎながら、自分ならではの恐怖感や狂気を加え、独自の人気を築きました。
カブキ本人も、ムタが自分のスタイルを取り入れたことをうれしく思っていたと語っています。後輩が先駆者の表現を受け継ぎ、さらに発展させた好例といえるでしょう。
TAJIRIや大仁田厚など後続レスラーへの影響毒霧は、グレート・ムタだけの技になったわけではありません。
大仁田厚やTAJIRIなど、後の時代に毒霧を使うレスラーも登場しました。カブキが作り出した演出は、プロレスの表現方法の一つとして広く定着していきます。
ただし、毒霧を使うこととカブキの技術をそのまま再現することは同じではありません。カブキの場合は、毒霧を使うタイミングや照明、観客からの見え方まで意識した演出だったことが、2014年の週プレNEWSの取材でも明かされています。
つまり、後続レスラーに受け継がれたのは技そのものだけではなく、技をどう見せれば観客の記憶に残るかという演出面の考え方でもあったのです。
THE KABUKIは本当の息子なのかもう一人、カブキの息子として名前が登場するのがTHE KABUKIです。
2011年、折原昌夫から、タイの地下格闘場にザ・グレート・カブキの子息を名乗る格闘家がいるという情報が伝えられました。
この人物がTHE KABUKIを名乗り、日本のプロレス界にも登場することになります。
当時の報道や関係資料によると、カブキ本人はアメリカ時代の前妻との息子とは長年会っていなかったと話し、天龍源一郎とともにTHE KABUKIと対面しました。
その後、天龍プロジェクトでのデビュー戦にセコンドとして付き、2011年11月には限定復帰してタッグを結成。プロレスの演出として「カブキの隠し子」という設定が採用されました。
ここで重要なのは、THE KABUKIという選手の存在と、カブキ本人との実際の血縁関係は別の話だということです。リング上で親子として共演した事実はありますが、それをもって実子と断定することはできません。
グレート・ムタの親子設定とTHE KABUKIの親子設定は、いずれもプロレスのストーリーとして展開されたものですが、成立した時代や経緯は異なります。
【2026年現在】ザ・グレート・カブキは何をしている?引退後と居酒屋の閉店
2026年現在のザ・グレート・カブキは、78歳。プロレスラーとしての正式な引退を終え、現役選手としてリングに上がる生活からは離れています。
引退後の活動を理解するには、1998年の最初の引退、2002年の復帰、2017年の正式引退、そして2023年の最後のリングパフォーマンスを区別する必要があります。
1998年の引退と2002年の復帰カブキは1998年、50歳を迎える直前に一度引退しました。
その後は飲食店の経営などを行っていましたが、2002年に再びプロレス界へ戻ります。当初はマネージャーなどの役割が中心でしたが、状況の変化から試合にも復帰しました。
以降は新日本プロレスやインディー団体など、さまざまな舞台で活動を続けました。
2017年12月22日、後楽園ホールで正式引退長い現役生活に区切りを付けたのは、2017年12月22日です。
プロレスリング・ノアの後楽園ホール大会で引退試合を行い、越中詩郎や齋藤彰俊らと組んで6人タッグマッチに出場しました。
試合ではヌンチャク、毒霧、アッパーカットなど、長年の代名詞となった演出を披露。勝利で試合を終えた後、引退セレモニーが行われました。
日刊スポーツの2017年12月23日の報道では、最後の10カウントを受けたカブキが、リング上でヌンチャクを置き、最後の毒霧を天井に向けて吹き上げた様子が伝えられています。
本人はプロレス人生について「もう思い残すことはない」と振り返りました。
2023年1月、グレート・ムタの引退試合で最後のパフォーマンス2017年の正式引退後も、記念興行などで姿を見せることはありました。
2022年9月には全日本プロレス50周年記念大会で、ヌンチャクと毒霧を披露しています。
さらに2023年1月22日、横浜アリーナで開催されたグレート・ムタの引退試合にも登場。ムタの入場前にヌンチャクを披露し、赤い毒霧を噴き上げました。
このパフォーマンスは、本人側から最後のリング上での演出として告げられたものです。カブキとムタという、プロレス史に残る師弟的なキャラクターの関係を締めくくる場面になりました。
25年間続けた居酒屋も2025年に完全閉店引退後のカブキを語るうえで欠かせないのが、居酒屋「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」です。
1998年11月18日、飯田橋で「串焼きちゃんこ かぶき」として開業。その後、2016年3月に東京都文京区小石川へ移転し、妻の安子さんとともに店を切り盛りしていました。
店ではちゃんこ鍋や煮込み料理などを提供。プロレスファンが集まり、カブキ本人から当時の試合や海外遠征の話を聞ける場所としても親しまれていました。
2023年には25年間続けた営業に区切りを付けることを発表し、同年12月27日に通常営業を終了しました。
その後も常連客の希望に応じて不定期の特別営業を行っていましたが、2025年10月18日をもって完全閉店となりました。2025年10月のスポーツ報知報道をもとにしたプロレス専門サイトの記事では、店内に飾られていた貴重なプロレス関連グッズがオークションに出されることも伝えられています。
2023年の閉店決定時には、年齢や体調面、家族との暮らしを考えた判断だったことも報道されています。長年にわたってファンと交流してきた場所は、2025年にその歴史を終えました。
2026年には専門誌のインタビューにも登場リングや居酒屋での活動は一区切りを迎えていますが、カブキのプロレス史における存在感は現在も失われていません。
2026年6月24日発売の『Gスピリッツ』Vol.80には、ザ・グレート・カブキ本人のインタビュー「回想―高千穂明久のアメリカ武者修行」の前編が掲載されました。
加えて、同年9月29日発売のVol.81には後編が掲載されています。高千穂明久として海外へ渡った時代から、アメリカでの経験を積み重ねていった過程が改めて取り上げられました。
2026年現在のカブキを語る際には、単に「引退している」という情報だけでなく、こうした証言や回想を通じてプロレス史を伝える存在になっている点にも注目したいところです。
【プロの結論】ザ・グレート・カブキがプロレス史に残した本当の功績
ザ・グレート・カブキの功績は、毒霧を最初に広めたレスラーという一点だけでは説明できません。
彼の本質的な価値は、海外の観客に受け入れられるキャラクターを自ら作り上げ、それを試合内容と結び付けて世界的な人気に変えたことにあります。
技術だけではなく、見せ方まで含めてプロレスだったカブキ以前にも、顔にペイントを施して戦うレスラーは存在しました。そのため、顔面ペイントそのものを歴史上初めて行った人物と断定するのは正確ではありません。
しかし、歌舞伎風のメイク、忍者を思わせる衣装、ヌンチャク、毒霧を一つのキャラクターとして定着させ、継続的な人気につなげた功績は非常に大きいものです。
加えて、カブキは試合の技術を軽視していませんでした。二宮清純の2022年のプロレスコラムでも、正統派だった高千穂時代の技術を生かし、左アッパーカットやトラースキックに磨きをかけたことが紹介されています。
つまり、見た目で注目を集め、実際の試合で実力を示すという二段構造があったのです。
海外で生まれたキャラクターが日本の人気を変えた1983年の凱旋帰国は、海外で成功した日本人レスラーが、そのキャラクターを保ったまま日本市場に戻るという点で象徴的でした。
当時の日本のプロレス界では、所属団体や国内での実績が選手の評価を左右する大きな要素でした。しかし、カブキはアメリカで得た知名度をそのまま持ち帰り、既存の人気選手とは異なる形で観客を獲得しました。
これは現在のプロレスにおける海外展開やキャラクターブランディングにも通じる考え方です。国内だけで評価を得ようとするのではなく、海外で独自の価値を築き、それを日本に持ち帰るという戦略の先駆的な事例でした。
後続レスラーに残したのは技ではなく表現の可能性グレート・ムタがカブキの息子という設定で登場したことは、その影響力を象徴しています。
ただし、ムタは単なるカブキの模倣ではありませんでした。武藤敬司のレスリング技術と独特の演技力を組み合わせ、別の時代に通用するキャラクターを作り上げました。
この関係は、先駆者のアイデアを後輩が受け継ぎ、独自の表現へと発展させた好例です。
毒霧やペイントを取り入れるレスラーが増えたことも、カブキがリング上の表現方法を広げた証拠といえます。
カブキの経歴から学べるのは、既存のスタイルを守るだけではスターになれないということです。自分の強みを理解し、観客が何を求めているかを考え、それを独自の形で表現する。その積み重ねが、時代を超えて記憶されるキャラクターを生み出しました。
【ザ・グレート・カブキの現在】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ザ・グレート・カブキの本名と出身地は?
A1:本名は米良明久(めら・あきひさ)です。1948年9月8日生まれで、宮崎県延岡市出身です。1964年に日本プロレスでデビューしました。
Q2:ザ・グレート・カブキの毒霧はどのように生まれた?
A2:アメリカ遠征中、試合後のシャワーで口に入った水を照明に向けて吹き上げた際、虹のように見えたことが発想のきっかけです。さまざまな色を試し、赤と緑がリング上で特に美しく映えることを発見しました。
Q3:「東洋の神秘」と呼ばれた理由は?
A3:歌舞伎風の顔面ペイント、忍者風の衣装、ヌンチャク、毒霧という独創的なスタイルが、アメリカの観客に強い印象を与えたためです。実力を伴ったキャラクターだったことも人気の理由です。
Q4:ザ・グレート・カブキはグレート・ムタの実の父親?
A4:実の父親ではありません。1989年にグレート・ムタがWCWに登場した際に、カブキの息子というプロレス上の設定が採用されました。ムタを演じたのは武藤敬司です。
Q5:THE KABUKIは本当の息子?
A5:2011年にカブキの隠し子という設定で登場し、本人とタッグを組みました。ただし、リング上の親子設定と実際の血縁関係は区別する必要があります。
Q6:ザ・グレート・カブキは現在もプロレスをしている?
A6:2017年12月22日にプロレスリング・ノアの後楽園ホール大会で正式な引退試合を行っています。2023年1月にはグレート・ムタの引退試合で最後のリングパフォーマンスを披露しました。2026年には専門誌のインタビューにも登場しています。
Q7:カブキが経営していた居酒屋は現在も営業している?
A7:「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」は、2023年12月27日に通常営業を終了しました。その後、不定期営業を続けていましたが、2025年10月18日に完全閉店しています。
ザ・グレート・カブキは、本名・米良明久として宮崎県延岡市に生まれ、日本プロレスでキャリアをスタートさせたレスラーです。高千穂明久やミスター・サトなど複数のリングネームで活動した後、1981年にアメリカでザ・グレート・カブキへと変身しました。
歌舞伎風メイク、毒霧、ヌンチャクという独自のスタイルは、アメリカで「東洋の神秘」と呼ばれるほどの人気を生み出しました。そして1983年の全日本プロレスへの凱旋帰国によって、日本でも幅広い支持を獲得します。
その影響はグレート・ムタやTAJIRIなど、後続レスラーにも受け継がれています。2017年に正式引退し、長年続けた居酒屋も2025年に完全閉店しましたが、2026年にも専門誌でその経験が振り返られるなど、プロレス史に残した足跡は今も語り継がれています。
カブキが証明したのは、レスラーの魅力は技の強さだけでは決まらないということです。独自のキャラクター、試合の技術、観客を楽しませる演出。そのすべてを一つにまとめたからこそ、ザ・グレート・カブキは時代を超えて記憶される存在になったのです。
主な参照資料: 週プレNEWS(2014年本人インタビュー)、日刊スポーツ(2017年引退報道)、よろず〜ニュース(2022年本人取材)、J:COM・二宮清純コラム(2022年)、ABEMA TIMES(2023年本人インタビュー)、辰巳出版『Gスピリッツ』Vol.80・81(2026年)、2025年の居酒屋完全閉店報道。