創氏改名(そうしかいめい)とは、日本統治下の朝鮮で1940年2月11日から実施された、朝鮮人の姓名制度を変更する政策である。1939年11月に公布された「制令第19号」と「制令第20号」を法的根拠とし、日本の家制度に由来する「氏」を朝鮮人にも設定させ、希望者には個人の「名」を日本風に変更することを認めた。
この制度を理解するうえで欠かせないのが、「創氏」と「改名」は同じではなかったという点だ。創氏は全世帯に適用され、届け出をしなかった場合でも戸主の姓が自動的に氏となった。一方、個人の名を変更する改名は、法律上は任意であり、裁判所の許可を必要とした。しかし、朝鮮総督府による皇民化政策のもと、行政機関や学校、職場などで創氏を促す圧力が強まり、制度上の任意性と現場の実態には大きな隔たりがあった。
1940年8月10日の届出期限までに、朝鮮全体の約80%の世帯が新しい氏を届け出たとされる。ただし、この数字は個人の名まで日本風に変更した割合ではない。個人の改名については、國分麻里の研究によれば、1941年末までに約231万人、当時の総人口の約9.7%だった。
さらに1945年の日本の敗戦後、南朝鮮を統治した米軍政庁は1946年10月23日に「朝鮮姓名復旧令」を公布し、日本統治期の創氏制度による姓名変更を無効とした。制度の成立から解消までをたどると、創氏改名は単なる名前の変更ではなく、植民地統治、家族制度、民族的アイデンティティーが交差した政策だったことが分かる。
【まず定義】創氏改名とは何か?朝鮮の姓と日本の氏は何が違ったのか

創氏改名を正しく理解するには、まず朝鮮の「姓」と日本の「氏」の違いを押さえる必要がある。
当時の朝鮮社会では、姓は父系血統を示すものであり、本貫(本家の発祥地や同族集団の系統を示すもの)と結びついていた。姓は祖先から受け継ぐ一族の重要な標識であり、婚姻によって妻が夫の姓に変わる日本の家制度とは異なる仕組みだった。
これに対して、日本の「氏」は、同じ戸籍に属する家族集団、すなわち「家」の名称を意味した。婚姻や養子縁組などによって所属する家が変われば、氏も変わり得る制度だった。
1939年の朝鮮民事令改正は、この日本式の氏の仕組みを朝鮮人にも適用した。従来の姓と本貫は戸籍上に残されたものの、戸籍における公的な姓名の扱いは変更され、新たに設定された氏が家族全体の名称として使われることになった。
姓・氏・名の違いを整理姓:朝鮮社会で父系血統や一族のつながりを示すもの。原則として出生によって受け継がれ、婚姻によって変わるものではなかった。
氏:日本の家制度における家族集団の名称。同じ戸籍に属する家族が共通して名乗るものだった。
名:個人を識別する名前。創氏改名制度では、この個人名を日本風に変更することも認められた。
ここで注意したいのは、創氏によって朝鮮人の従来の姓や本貫が完全に消滅したわけではないという点だ。戸籍上は「姓及び本貫」に関する記載が残されたが、従来の姓は新たな氏名とは異なる扱いになった。つまり、血統を示す姓を残しながら、公的な家族名称を日本式の氏へ変更する二重構造が生まれたのである。
この変更は、単なる書類上の表記変更ではない。家族のまとまりを何によって定義するのかという、社会制度の根本に関わる問題だった。
【歴史と経緯】1939年の朝鮮民事令改正から1940年の施行まで
創氏改名は突然始まった政策ではない。その背景には、1910年の韓国併合以降、日本が朝鮮の戸籍や家族制度を管理し、時期によって同化と差異化を使い分けてきた歴史がある。
1937年の日中戦争以降、皇民化政策が加速1912年の朝鮮民事令では、朝鮮人の親族・相続に関する事項について、従来の朝鮮の慣習を尊重する仕組みが残されていた。日本統治当局は、朝鮮人と日本人の戸籍を区別し、姓名についても一定の差異を維持していた。
しかし、1937年に日中戦争が始まると、朝鮮を日本の戦争遂行体制に組み込む政策が加速した。日本語の常用、神社参拝、皇国臣民の誓詞、教育制度の変更など、朝鮮人を日本の天皇を中心とする国家体制に統合しようとする皇民化政策が進められた。
創氏改名も、その一環として構想された。朝鮮の血縁集団を中心とする家族秩序を日本式の家制度へ組み替え、朝鮮人を日本の国家社会体制に組み込むことが政策の重要な狙いだった。
1939年11月10日、2つの制令を公布創氏改名の法的な出発点は、1939年11月10日である。この日、朝鮮総督府官報に2つの制令が掲載された。公布したのは、第7代朝鮮総督の南次郎だった。
制令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」は、朝鮮人にも日本式の家族名称である氏を設定する仕組みを導入した。戸主が氏を定め、役所に届け出ることを規定していた。
制令第20号「朝鮮人ノ氏名ニ關スル件」は、氏名の変更に関する条件を定めた。氏名の変更は原則として制限され、正当な事由があり、所定の許可を受けた場合に認められる仕組みだった。
両法令は別々の役割を担っていた。第19号が創氏の制度的基盤を設け、第20号が氏名変更の規則を定めたのである。
1940年2月11日、制度が正式に始動実際の施行日は1940年2月11日だった。朝鮮総督府は、この日から6か月間を氏の設定届出期間とし、同年8月10日を期限に設定した。
戸主は新しい氏を設定し、府尹または邑面長に届け出る必要があった。届け出がなかった場合も制度の対象外にはならず、戸主の従来の姓が自動的に氏として扱われた。
この仕組みによって、創氏は本人や各家庭が自由に拒否できる制度ではなかった。届け出をするかどうかにかかわらず、最終的には氏が設定される仕組みだったのである。
【制度の仕組み】創氏と改名、設定創氏と法定創氏を比較
創氏改名をめぐる議論で混乱しやすいのが、「設定創氏」と「法定創氏」の違いだ。また、創氏と改名を同じものとして扱うことも、制度の実態を見誤る原因になる。
設定創氏とは何か設定創氏とは、1940年2月11日から8月10日までの間に、戸主が新しい氏を決めて役所へ届け出る方式である。
例えば、従来の姓が李である戸主が、新たに「金村」という氏を設定して届け出れば、その氏は同じ戸籍に属する家族にも適用された。妻や子どもも家族共通の氏を名乗ることになる。
新しい氏は日本風のものが推奨され、総督府はその政策意図に沿う形で届け出を促した。従来の姓と本貫は戸籍上の記載として残された。
法定創氏とは何か法定創氏とは、期限までに設定創氏の届け出をしなかった場合、戸主の従来の姓を自動的に氏とする方式である。
つまり、届出を拒否すれば従来の姓がそのまま氏になるものの、氏という制度そのものから離脱することはできなかった。
設定創氏を選ぶか、法定創氏になるかという違いはあったが、全世帯に氏を適用するという制度の基本方針は変わらなかった。
創氏と改名の違いを一覧で確認| 比較項目 | 創氏 | 改名 |
|---|---|---|
| 対象 | 家族・戸籍上の家 | 個人の名 |
| 内容 | 家族共通の氏を設定 | 個人名を変更 |
| 法的な扱い | 全世帯に適用される義務的制度 | 原則として任意 |
| 手続き | 戸主が役所に届け出る | 裁判所の許可を受けて届け出る |
| 設定期間 | 1940年2月11日~8月10日 | 創氏と異なり、個別の許可手続きによる |
| 未届けの場合 | 戸主の従来の姓を氏とする法定創氏 | 従来の名を維持 |
| 実施の意味 | 日本式の家制度を導入 | 日本風の個人名への変更を可能にする |
この表から分かるように、創氏と改名は法的にも手続き上も異なる制度だった。
國分麻里が『教育史学研究』に発表した研究「朝鮮人女学生と改名」では、改名には変更理由を記載した申請書と50銭の手数料が必要で、住所地または本籍地を管轄する裁判所の許可を受ける必要があったと整理されている。
同研究は、1941年末までに改名した人を約231万人とし、当時の総人口2386万人に対する割合を約9.7%と算出している。
したがって、創氏改名の届出率が約80%だったという数字を、そのまま「朝鮮人の80%が個人名まで日本風に変更した」と解釈するのは誤りである。約80%は設定創氏の届出率であり、個人の改名率とは区別しなければならない。
【強制性の実態】創氏改名は本当に強制だったのか?約80%の届出の背景
創氏改名をめぐる最大の疑問は、法律上の制度と実際の運用の間にどれほどの差があったのかという点だ。
朝鮮総督府は、創氏を届け出るかどうかを戸主の判断に委ねるような形式を採用した。しかし、届け出をしなければ法定創氏となるため、氏の設定そのものを拒否する自由はなかった。
加えて、届出期間中の行政的な圧力が強まったことが、国史編纂委員会の歴史解説にも記録されている。
開始直後の届出率は5%未満だった1940年2月11日に創氏の届出が始まったものの、最初から多くの家庭が積極的に新しい氏を設定したわけではなかった。
国史編纂委員会の歴史解説によれば、届出開始から2か月以上が経過した同年4月の時点でも、創氏の届出率は5%未満だった。朝鮮社会では、祖先や父系血統を重視する伝統が強く、姓を変更することに抵抗感を持つ人が少なくなかった。
親日的な立場にあった朝鮮人有力者の中にも、創氏に否定的な態度を示す人がいた。これは、単純に日本風の名前を名乗ることが歓迎されていたわけではなかったことを示している。
地方行政・学校・職場を通じた圧力届出率の低さを問題視した朝鮮総督府は、1940年3月から4月ごろにかけて、講演会やパンフレットなどを利用した宣伝活動を強化した。
地方官庁や公共機関も創氏を推進し、地域ごとに届出実績を競わせるような活動が行われた。総督府は各地域の届出状況を継続的に報告させ、創氏の実績を皇民化の進展を測る指標として扱った。
学校や職場でも圧力が確認されている。教員や学校職員には率先して創氏するよう働きかけが行われ、子どもたちにも創氏が求められた。子どもに新しい氏を使わせることで、家庭の戸主である父親や祖父にまで届出を促す方法も採られた。
学校によっては、創氏した児童に新しい氏の名札を付けさせることもあった。創氏していない子どもに心理的な負担を与え、家庭にも圧力を及ぼす仕組みとして作用した。
官公庁や警察などに勤める朝鮮人職員にも、率先して創氏するよう求められた。仕事や生活に直結する立場にある人々にとって、制度への不参加は容易な選択ではなかった。
学校への入学や就職で不利益を受けるという話も広がった。こうした話のすべてが一律の公式命令だったわけではないが、行政機関や学校などの現場での働きかけが、住民の選択に強い影響を与えていたことは確認できる。
最終的に約80%の世帯が設定創氏を届け出た1940年8月10日の期限までに、設定創氏の届出率は約80%に達した。
一見すると、朝鮮人の大多数が自発的に日本式の氏を受け入れたようにも見える。しかし、4月時点で5%未満だった数字が、行政による大規模な推進活動を経て急上昇したという経過を無視することはできない。
また、届出をした家庭のすべてが政策に賛同していたわけではない。職業上の立場、子どもの学校生活、行政手続き、社会的な不利益への懸念など、複数の事情が絡んでいた。
ここで重要なのは、法的に届出を求める制度と、行政・社会的圧力によって実行を迫る運用を区別しつつ、両者が重なっていた事実を捉えることだ。創氏改名は、単に本人が自由意思で選んだ姓名変更として説明できる制度ではなかった。
【政策の目的と矛盾】朝鮮総督府の皇民化政策と日本式氏名の実態
創氏改名の目的は、朝鮮人に日本風の名前を名乗らせることだけではなかった。背景には、朝鮮社会の家族秩序を日本の国家体制に適合させ、戦時下の人的・物的資源の動員を進めようとする植民地統治の構造があった。
「内鮮一体」と皇民化政策朝鮮総督府が掲げた「内鮮一体」は、日本本土と朝鮮を一体化させるという統治理念だった。
しかし、実際には日本人と朝鮮人が対等な立場で一体化することを意味していたわけではない。朝鮮人を天皇中心の国家体制に組み込みながら、植民地住民としての差別的な位置づけは維持されていた。
創氏改名では、朝鮮人の父系血縁集団を中心とする家族秩序を弱め、日本の家制度に基づく家族名称を導入することが目指された。
この政策には、日中戦争以降の戦時動員を円滑に進める狙いもあった。日本語の使用や皇国臣民としての意識形成などと並び、姓名制度を通じて人々の生活や社会的な所属意識を変えようとしたのである。
同化を進めながら、完全な同一化は避けた創氏改名を研究するうえで見落とせないのが、朝鮮総督府の政策に存在した同化と差異化の矛盾である。
総督府は朝鮮人に日本風の氏を設定するよう求めた一方、実際の日本人と朝鮮人が姓名だけで区別できなくなることには警戒していた。
国史編纂委員会の歴史解説によれば、総督府は朝鮮人の氏を日本風にするよう誘導しながら、実際の日本人の氏名と完全に同一になることも避けようとしていた。朝鮮人の本来の姓や本貫を戸籍上に残したのも、こうした民族的な区別を維持する仕組みと関係していた。
つまり、朝鮮人には日本式の家族制度を適用して同化を促す一方、日本人と完全に同じ社会的地位を与えることは想定していなかったのである。
この二重性は、創氏改名が単純な日本文化の普及政策ではなく、植民地支配の論理に基づく制度だったことを示している。
抵抗や皮肉、政策への賛同も存在した創氏改名への対応は一様ではなかった。制度に反発して届出を避けようとした人もいれば、生活上の不利益を避けるために従った人、積極的に政策を支持した人もいた。
国史編纂委員会の資料には、創氏への不満を述べたり、朝鮮が独立すれば元の姓に戻ると発言したりした人物が、当局から取り締まりを受けた事例も紹介されている。
一方、積極的に創氏改名を推進した人物として、李光洙(イ・グァンス)の例が知られている。李光洙は「香山」という氏を設定し、個人名も「光郎」に変更した。彼は創氏改名を肯定する立場から、朝鮮の従来の姓名制度を批判する主張を展開した。
このように、創氏改名の歴史には、強制された人々だけでなく、政策に協力した人々、抵抗した人々、状況に応じて対応した人々が存在した。個々の行動を一つの理由だけで説明することはできない。
【解放後の姓名回復】1946年の朝鮮姓名復旧令と創氏改名の終結
1945年8月15日、日本の敗戦によって朝鮮半島は日本の植民地支配から解放された。しかし、政治的な解放と、戸籍や姓名制度の変更が同時に完了したわけではなかった。
南朝鮮では米軍政庁が統治を行い、植民地期に制定された法令の整理が進められた。その中で創氏制度による姓名変更を処理するため、1946年10月23日に法令第122号「朝鮮姓名復旧令」が公布・施行された。
日本式氏名を原則無効とした法令第122号朝鮮姓名復旧令は、在朝鮮米軍政庁が発布した法令であり、正式な英語名称は「Restoration of Korean Names」である。
この法令の第1条は、日本統治時代の創氏制度によって日本式氏名に変更された朝鮮姓名を簡易に復旧することを目的としていた。
第2条では、植民地期の法令に基づいて日本式氏名に変更された戸籍上の記載を、変更当初から無効とすることが定められた。ただし、創氏改名のもとで成立した法律行為には影響を与えないという例外も設けられた。
つまり、姓名の変更は無効とされても、その名前で成立した契約やその他の法律行為まで遡って無効になるわけではなかった。
日本式の氏名を残す選択肢もあった興味深いのは、朝鮮姓名復旧令が日本式氏名を一律に強制的に抹消する内容ではなかったことだ。
法令では、施行後60日以内に日本式氏名を維持したい意思を戸籍担当者に届け出れば、その氏名を引き続き保持できる仕組みが設けられた。
届け出がなかった場合には、60日経過後に旧来の朝鮮姓名へ戸籍を訂正する手続きが進められた。
また、植民地期の法令に基づいて出生時から日本式の名が登録され、従来の朝鮮式の名を持たなかった人については、施行後6か月以内に朝鮮式の名への変更を届け出ることができた。それ以降は裁判所への申請が必要とされた。
姓名の回復は、個人の歴史を取り戻すことでもあった創氏改名によって生じた問題は、解放後も姓名の表記だけにとどまらなかった。
国史編纂委員会の歴史解説は、強制動員などで亡くなった朝鮮人の記録が日本式氏名で残されたことにより、戦後に本人の身元を特定することが困難になった問題を指摘している。
軍人・軍属、炭鉱、軍需工場などで働いた人々の名簿に日本式氏名が記載されている場合、旧来の朝鮮姓名との照合が必要だった。本人が亡くなっている場合には、その人物が誰であったのかを確認する作業はさらに難しくなった。
名前は単なる個人識別のための記号ではない。家族関係、出身地、血統、人生の記録と結びついている。姓名の変更によって生じた問題は、植民地支配が終わった後も人々の生活や記憶に影響を及ぼしたのである。
なお、1946年の朝鮮姓名復旧令は米軍政庁の法令であり、米軍政下の南朝鮮で施行された制度である。朝鮮半島全域に同一の行政手続きが適用されたと理解するのは正確ではない。
【研究と史料】水野直樹『創氏改名』から読み解く歴史的評価
創氏改名の研究を理解するうえで重要な文献の一つが、京都大学人文科学研究所で朝鮮近代史・東アジア関係史を専門とする水野直樹による『創氏改名―日本の朝鮮支配の中で』である。
同書は2008年3月に岩波新書から刊行された。国立国会図書館の書誌情報によれば、246ページの研究書であり、創氏改名の政策決定、実施過程、強制の実態、批判や抵抗、植民地支配における同化と差異化を扱っている。
水野の研究で重要なのは、法令に書かれた内容だけでなく、朝鮮総督府など日本当局の行政資料を通じて、政策がどのように現場へ伝達され、どのような圧力として作用したかを検証している点だ。
また、創氏と改名を区別することも重要な研究上の視点となる。創氏は制度として全世帯に適用された一方、個人名の変更は別の手続きを必要とした。両者を一括して「日本式の名前に変更した」と説明すると、制度の仕組みや実際の改名率を誤って理解する可能性がある。
國分麻里の「朝鮮人女学生と改名」も、改名の実態を考えるうえで参考になる研究だ。学校の学籍簿などを手がかりに、女性の名前がどのように変わったのか、本人や社会が名前をどう認識していたのかを検討している。
こうした研究を組み合わせると、創氏改名を単純な「名前を変えた政策」として扱うだけでは不十分であることが分かる。法制度、行政運用、家庭内の判断、学校や職場での圧力、解放後の戸籍訂正という複数の側面から考える必要がある。
【創氏改名】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:創氏改名はいつから始まり、いつまで続いたのですか?
A1:1939年11月10日に制令第19号・第20号が公布され、1940年2月11日に施行されました。氏の設定届出期間は同年8月10日まででした。日本の敗戦後、南朝鮮では1946年10月23日の朝鮮姓名復旧令によって創氏制度による姓名変更が無効とされました。
Q2:創氏改名は朝鮮人全員に強制されたのですか?
A2:創氏は全世帯に適用され、届出をしなかった場合も戸主の姓が自動的に氏となる法定創氏が設けられていました。さらに行政、学校、職場などを通じた圧力も確認されています。一方、個人の名を変える改名は法令上は任意で、裁判所の許可が必要でした。
Q3:創氏改名で朝鮮人の約80%が日本名に変えたというのは本当ですか?
A3:約80%という数字は、1940年8月までに新しい氏を届け出た世帯の割合です。個人名まで日本風に改名した人の割合とは異なります。國分麻里の研究では、1941年末までに改名した人は約231万人で、当時の総人口の約9.7%とされています。
Q4:解放後、日本式の氏名はすべて自動的に無効になったのですか?
A4:1946年の朝鮮姓名復旧令は、日本統治期の創氏制度による氏名変更を原則として当初から無効としました。ただし、日本式氏名を維持したい人は施行後60日以内に届け出ることができました。また、出生時から日本式の名が登録されていた人には、朝鮮式の名へ変更するための6か月の届出期間が設けられました。