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【事件の経緯】1988年2月23日、大高緑地で何が起きたのか

水沢 茜 水沢 茜 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
目次

名古屋アベック殺人事件は、1988年2月23日未明から25日にかけて、愛知県と三重県で発生した強盗致傷・強盗強姦・殺人・死体遺棄事件である。

被害者は、当時19歳の理容師・野村昭善さんと、当時20歳の理容師見習い・末松須弥代さん。交際していた2人は、名古屋市緑区の大高緑地で車に乗っていたところを、6人の若者グループに襲撃された。

加害者グループは17歳から20歳の男女6人で構成されていた。5人が犯行時の少年少女で、1人は成人だった。被害者2人と加害者側に事前の面識はなかった。

犯行は大高緑地に向かう前から始まっていた

事件当夜、6人は名古屋市中区のテレビ塔付近などで合流した。高裁判決によれば、当時の若者集団は「噴水族」「テレビ塔族」などと呼ばれていた。

遊興費などを得る目的で、深夜に車内にいる男女を襲うことを決めた6人は、名古屋港の金城ふ頭付近でも複数の男女を襲撃している。

その後、午前4時半ごろ、大高緑地の駐車場にいた野村さんと末松さんを襲った。2人は金品を奪われ、暴行を受けたうえ、車で連れ回されることになった。

高裁の事実認定によれば、最初から2人の殺害を目的としていたのではなく、強盗などの犯行を発覚させないために殺害の話が持ち上がったという経過があった。

2人が殺害された場所と日時

野村さんは1988年2月24日未明、愛知県長久手町(現在の長久手市)の墓地で殺害された。

末松さんは翌25日未明、三重県阿山郡大山田村(現在の伊賀市)の山林で殺害された。2人の遺体は山林に埋められた。

事件の発覚後、愛知県警は2月27日から28日にかけて関係者6人の身柄を確保した。事件は強盗だけでなく、性的暴行、2人の殺害、死体遺棄にまで及んだ重大事件として刑事裁判で審理されることになった。

被害者2人が目指していた将来

裁判記録で見落としてはならないのが、野村さんと末松さんが、それぞれ仕事と将来の生活を築こうとしていた若者だったという事実だ。

野村さんは理容師免許を取得し、将来は父親の理容業を継ぐ予定だった。末松さんも理容店で見習いとして働きながら、理容師免許の取得を目指して勉強していた。

2人は同じ理容店で働き、交際していた。高裁判決も、2人が将来に向けて生活を築こうとしていたことに触れている。

事件を加害者側の心理や更生の問題だけで語ると、奪われた2人の人生が見えにくくなる。事件の中心にいたのは、何の落ち度もなく命を奪われた2人だった。

【公判証言と手記】1991年、犯人は法廷で何を語ったのか

名古屋アベック犯人インタビュー

犯人インタビューを調べるうえで、特に重要なのが1991年の被告人質問である。

1988年の事件発生から約3年後、名古屋地裁で行われた公判では、主犯格と共犯者に対する被告人質問が複数回実施された。初公判から1991年8月末までに、両被告人への質問は計6回にわたって行われたと記録されている。

1991年1月28日の第3回公判

この日の被告人質問で、主犯格は自身が書いた手記を読み上げた。

手記で述べたのは、被害者遺族が死刑を望むことは当然だという認識と、死刑になったとしても、それだけで罪を償えるとは考えていないという趣旨だった。

加えて、自分にできることとして、同じ事件を繰り返さないために事件の実態を伝えたいという考えを示した。

特に注目されるのは、事件の外側にある経緯だけでなく、事件の内側にあった心理や集団の動きについても説明したいと考えていた点だ。

ただし、これは本人が法廷で述べた内容であり、裁判所がすべてを事実として認定したという意味ではない。本人の自己認識と、証拠に基づく司法判断は分けて読む必要がある。

手記に表れた死刑と贖罪への考え

1991年の陳述では、死刑になって何もせずに終わることが、自分の責任から逃げることにつながるという趣旨の考えも示された。

ここには、刑罰を受けることと、被害者に対する償いを続けることは同じではないという認識が表れている。

もっとも、加害者が償いを望んでいることと、被害者遺族がその償いを受け入れることは別問題だ。遺族には、加害者の更生を支援する義務も、謝罪を受け入れる義務もない。

1991年の手記は、犯人の考え方を知る重要な記録である一方、遺族の感情を代弁するものではない。

【遺族への謝罪の手紙】服役後も続いた文通の実態

名古屋アベック殺人事件のその後を考えるうえで、もう一つ重要な資料が、加害者から被害者遺族に送られた手紙である。

この交流は、共同通信の報道や佐藤大介氏による岩波書店の月刊誌『世界』の記事などで取り上げられた。

1989年の死刑判決後から始まった謝罪

報道によれば、主犯格は1989年の名古屋地裁で死刑判決を受けた後、野村さんと末松さんの遺族に謝罪の手紙を書き始めた。

1997年に無期懲役が確定して岡山刑務所に収監された後は、刑務作業で得た報奨金も添えて遺族に送るようになった。

2005年3月には、一方の被害者の父親から初めて手紙が届いたと報じられている。翌年以降も文通が続き、受刑者側は遺族からの返事に対して返信を書いていた。

遺族の返信は「許し」を意味しなかった

この文通で特に大切なのは、遺族側が加害者を許したわけではないという点だ。

2008年の共同通信の取材では、父親は加害者を決して許さないという気持ちを持ちながら、一人の人間として接しているという趣旨を語った。

また、2009年の佐藤大介氏の取材では、文通を死刑廃止運動などに利用されたくないという父親の考えも伝えられた。

つまり、遺族との交流は、加害者に対する処罰感情が消えたことを意味しない。被害者の父親自身が考え、選んだ個人的な関係だった。

2009年『世界』に掲載された手紙の記事

この交流を詳しく伝えたのが、佐藤大介氏による「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」という記事だ。

2009年8月1日発行の岩波書店『世界』第794号、66~74ページに掲載された。刑務所内での生活、遺族との文通、謝罪を続ける受刑者の姿などが取材されている。

2016年の『新潮45』の記事と合わせて読むと、公判での陳述から服役後の生活まで、本人の考え方がどのように報じられてきたかをたどることができる。

【裁判の時系列】1989年の死刑判決から1996年の無期懲役への変更まで

この事件の裁判で重要なのは、一審と控訴審で判断が変わったことだけではない。6人それぞれの犯行時の年齢や、殺害への関与、共謀が成立した時期によって、刑事責任が異なっていたことだ。

特に、主犯格の19歳の被告人に対する死刑判決と、17歳の被告人に対する無期懲役は、少年法の理解に直結する。

事件と裁判の主要年表
時期 出来事 司法・報道上の意味 1988年2月23日 大高緑地で野村昭善さんと末松須弥代さんが襲撃される 事件の発端 1988年2月24~25日 2人が相次いで殺害され、遺体が遺棄される 強盗事件から殺人事件へ発展 1988年7月18日 名古屋地裁で6人の初公判 刑事裁判が始まる 1989年6月28日 名古屋地裁が主犯格に死刑判決 17歳の共犯者には少年法の規定により無期懲役 1991年1月28日 第3回公判で主犯格が手記を読み上げる 被告人陳述が報道される 1996年12月16日 名古屋高裁が一審の死刑判決を破棄 主犯格を無期懲役に変更。別の被告人も懲役13年に変更 1997年1月 控訴審判決が確定 主犯格は岡山刑務所に収監 2009年8月 月刊『世界』に遺族との文通を扱った記事が掲載 謝罪と遺族との交流が広く知られる 2016年9月・2021年5月 『新潮45』掲載、デイリー新潮で再掲載 刑務所内での本人取材が公表される

年表の根拠となる主な資料は、1989年の朝日新聞報道、名古屋高裁の判決文、国立国会図書館の書誌情報、佐藤大介氏の取材記事である。

1989年6月28日、名古屋地裁が下した判決

一審の名古屋地裁は、主犯格の被告人に対して死刑を言い渡した。

ほかの5人に対する刑も、それぞれ異なっていた。

- 主犯格の少年(犯行時19歳6か月):死刑
- 17歳の少年:無期懲役
- 成人の男性被告人:懲役17年
- 別の男性被告人:懲役13年
- 少女2人:懲役5年以上10年以下の不定期刑

ここで注意したいのは、17歳の少年にも死刑相当の判断があった場合、当時の少年法第51条によって無期刑に変更される仕組みが存在したことだ。

一方、死刑を言い渡された主犯格は犯行時19歳6か月だった。18歳未満ではなかったため、少年であっても死刑の対象になり得た。

したがって、主犯格の死刑判決が控訴審で変更されたことと、17歳の少年に最初から無期懲役が言い渡されたことは、法律上、異なる判断である。

1996年12月16日、名古屋高裁が死刑判決を破棄

1996年12月16日、名古屋高裁は一審の死刑判決を破棄し、主犯格に無期懲役を言い渡した。

同時に、懲役17年だった別の被告人についても一審判決を破棄し、懲役13年とした。この被告人については、野村さん殺害に関する共謀が成立していたとは認められず、その部分は無罪と判断された。

高裁が重視したのは、事件の重大性だけではない。犯行時の年齢、集団犯罪の特徴、殺人に至った経緯、個々の被告人の関与、反省の深まり、更生可能性などを総合的に評価した。

特に主犯格については、犯行を主導し、殺害に積極的に関わった責任を重く認めながらも、矯正によって罪の償いを長期にわたって続けさせる余地があると判断した。

なお、検察側は上告を断念し、1997年1月に控訴審判決が確定した。

【犯人の現在】2026年に確認できる服役状況と報道の範囲

事件から38年が経過した2026年、検索されることが多いのが、主犯格は現在も刑務所にいるのか、すでに仮釈放されたのかという疑問だ。

この点について、重要な取材記録が2016年と2021年に公表されている。

2021年のデイリー新潮が伝えた主犯格の生活

佐藤大介氏は2016年に岡山刑務所を訪れ、主犯格の受刑者に面会取材を行った。その内容は『新潮45』に掲載され、2021年5月11日にデイリー新潮で再掲載された。

記事では、服役中の生活や刑務作業、受刑者としての処遇、社会復帰への希望などが紹介されている。受刑者は記事内で仮名を使用されている。

取材記事から分かるのは、2021年の再掲載時点で、主犯格が岡山刑務所で服役していたことだ。

2022年のTBS『報道特集』でも獄中取材

2022年8月6日のTBS『報道特集』では、少年時代の重大犯罪によって無期懲役となった受刑者たちへのインタビューが放送された。

番組には、犯行時19歳で一審死刑、二審無期懲役となった受刑者も登場し、刑務所での生活や被害者に対する贖罪について語っている。

これは、裁判当時の発言を再録したものではなく、服役生活を続ける本人に対する後年の取材という点で意味が異なる。

2026年現在、出所したと断定できるのか

2021年のデイリー新潮の記事では岡山刑務所で服役中とされている。2022年にもTBSが無期懲役囚の獄中取材を公表している。

ただし、2026年11月現在の仮釈放や収容先について、本人を特定できる新たな公的発表は確認できない。したがって、すでに出所した、あるいは現在も同じ施設にいると断定することはできない。

また、事件の6人全員が同じ刑罰を受けたわけではない。有期刑や不定期刑を受けた者と無期懲役が確定した者では、その後の状況も異なる。

ネット上に流通する実名、転居先、職業、家族構成などの情報を、本人の現在を示す確かな証拠として扱うことはできない。過去の裁判記録と、現在の生活状況に関する報道は分けて考える必要がある。

【プロの結論】犯人の発言・手記・裁判記録をどう読み分けるべきか

名古屋アベック殺人事件の資料を読み解くとき、最も重要なのは、同じ人物の発言でも記録された状況によって意味が異なるという点だ。

情報を調べる際には、次の3つの視点が役立つ。

本人の発言は、発言した時期と目的を確認する

1991年の公判での手記は、刑事裁判の場で自らの責任や事件について説明しようとした記録だ。

2016年の雑誌インタビューは、刑務所で生活する受刑者が、その後の人生や社会復帰について語った取材記録である。

両者を同じ種類の発言として扱うと、事件当時の認識と、服役後に形成された考え方の違いが見えなくなる。

謝罪と許しは別の問題として考える

遺族に手紙を書き、刑務作業の報奨金を送ることは、加害者側の行動として記録されている。

しかし、それによって被害者の命が戻るわけではなく、遺族の苦しみが解消されるわけでもない。遺族が文通に応じたことも、犯行を許したことと同義ではない。

この事件の遺族と加害者の交流は、修復的司法を考える材料にはなるが、被害者遺族の意思を尊重することが大前提になる。

裁判所の判断と加害者の自己評価を混同しない

主犯格が反省を述べたことは、公判や後年の取材に残されている。一方、1996年の名古屋高裁は、犯行の重大性を認めたうえで、個別の責任や更生可能性を検討して刑を変更した。

死刑から無期懲役への変更は、単に本人が反省したからという理由だけで説明できない。少年事件における刑事責任の判断、共犯者間の役割、犯行の経緯など、複数の要素が関係している。

事件を深く理解するには、本人の言葉だけを追うのではなく、被害者の人生、遺族の証言、裁判所の認定を同時に読むことが欠かせない。

【名古屋アベック殺人事件】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:名古屋アベック殺人事件の犯人インタビューは現在も読めますか?

A1:読めるものがある。代表的なのは佐藤大介氏が2016年に『新潮45』に掲載した刑務所内インタビューで、2021年にデイリー新潮でも再掲載された。また、TBS『報道特集』の2022年8月6日放送分にも、少年無期懲役囚へのインタビューが掲載されている。

Q2:1991年の被告人質問で犯人は何を語りましたか?

A2:1991年1月28日の第3回公判で手記を読み上げ、死刑になっても罪を償い切れるわけではないこと、事件の内側まで説明し、同じ事件を繰り返さないために努力したいという趣旨を述べた。

Q3:主犯格はなぜ死刑から無期懲役に変更されたのですか?

A3:1996年12月16日の名古屋高裁判決では、犯行の重大性を認めながら、犯行時の年齢、集団犯罪の未成熟さ、殺人に至る経緯、反省や矯正可能性などを総合的に判断し、死刑判決を破棄して無期懲役とした。

Q4:遺族への謝罪の手紙は本当に存在したのですか?

A4:存在が報道されている。1989年の死刑判決後から謝罪の手紙を送り、服役後には刑務作業の報奨金を添えるようになった。一方の被害者の父親との文通も、共同通信や佐藤大介氏の取材で伝えられている。

Q5:主犯格は2026年現在、出所していますか?

A5:2021年のデイリー新潮の記事では岡山刑務所で服役中と報じられている。2026年11月現在の仮釈放や出所を確定できる新たな公的情報は確認できないため、出所済みと断定することはできない。

名古屋アベック殺人事件の犯人インタビューは、公開されていないわけではない。1991年の公判での被告人陳述、2016年の『新潮45』による刑務所内取材、2021年のデイリー新潮での再掲載、そして2022年のTBS『報道特集』など、本人の言葉を知るための記録が残されている。

事件そのものは1988年2月23日から25日に発生し、1989年に名古屋地裁が主犯格に死刑判決を言い渡した。その後、1996年の名古屋高裁が判決を破棄して無期懲役に変更し、1997年1月に確定した。

加えて、服役後の謝罪の手紙や遺族との文通は、加害者の更生と被害者遺族の感情という、簡単には答えの出ない問題を社会に投げかけている。

事件を理解するために見るべきなのは、犯人の発言だけではない。野村昭善さんと末松須弥代さんが生きていた証し、遺族が長年抱えてきた思い、そして裁判所が下した判断も含めて考える必要がある。

38年という時間が経過しても、事件によって奪われた2人の人生は取り戻せない。加害者の現在を追うことと同じくらい、被害者と遺族の存在を忘れないことが、この事件を記録し続ける意味である。

主な参考資料・報道記録

  • 名古屋地方裁判所・1989年6月28日判決要旨(朝日新聞報道記録)
  • 名古屋高等裁判所・1996年12月16日判決(平成元年〈う〉第262号)
  • 佐藤大介「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」岩波書店『世界』2009年8月号
  • 佐藤大介「事件の深層を読む 『名古屋アベック殺人』無期懲役少年のいま」新潮社『新潮45』2016年9月号
  • デイリー新潮「『名古屋アベック殺人』主犯少年のいま、無期懲役の身に置かれて」2021年5月11日
  • TBS『報道特集』「事件当時“少年法”に守られた少年無期懲役囚たち 塀の中で語る“贖罪”」2022年8月6日
  • 国立国会図書館サーチ・CiNii Researchの関連書誌情報

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水沢 茜
デジタルマーケター 水沢 茜
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