東久邇信彦(ひがしくに・のぶひこ)は、昭和天皇と香淳皇后の初孫にあたる旧皇族です。1945年3月10日、東京大空襲のさなかに生まれ、わずか2歳で皇籍を離れました。皇族時代の名前は信彦王。父は東久邇宮盛厚王、母は昭和天皇の第一皇女・成子内親王です。
皇籍離脱後は慶應義塾大学で学び、三井銀行に勤務。その後、全日本野球会議名誉会長、日本タイ協会常務理事、世界連邦文化教育推進協議会会長など、スポーツ・国際交流・文化教育に関わるさまざまな公職や名誉職を歴任しました。1972年には島田吉子と結婚し、翌年には長男の東久邇征彦が誕生しています。2019年3月20日、74歳で生涯を閉じました。
【人物像】東久邇信彦とは何者か?旧皇族としての家系と昭和天皇との関係

東久邇信彦を理解するうえで欠かせないのが、父方と母方の両方に皇室との深いつながりがあるという家系です。
1945年(昭和20年)3月10日、東久邇宮盛厚王の第一子として誕生しました。母は昭和天皇の第一皇女である成子内親王(東久邇成子)。つまり、信彦は昭和天皇の娘と東久邇宮家の後継者との間に生まれた長男でした。
母方の祖父母は昭和天皇と香淳皇后です。信彦は両陛下にとって初めての孫であり、明治天皇の曾孫にもあたります。また、母の弟にあたる明仁上皇の甥であり、徳仁天皇とは従兄弟の関係です。
東久邇宮家の第2代当主としての立場東久邇宮家は、1906年(明治39年)、久邇宮家出身の稔彦王が創設した宮家です。稔彦王は後に東久邇宮稔彦王と称し、1945年の終戦直後には内閣総理大臣を務めました。
その長男が盛厚王で、信彦はその第一子です。父の盛厚王が1969年に亡くなり、祖父の稔彦王も1990年に逝去した後、東久邇家の当主として家を継いだ人物として紹介されています。東久邇宮家の第2代当主という位置づけでも知られています。
ここで押さえておきたいのは、東久邇宮という宮家の歴史と、信彦個人の皇族としての身分は別の問題だということです。宮家の系譜を受け継いでいても、1947年以降、信彦自身は皇族ではなく民間人として生活していました。
【家系図】東久邇信彦と盛厚王・成子内親王、昭和天皇との血縁関係
東久邇信彦の家系は、明治天皇につながる父方と、昭和天皇につながる母方の二つの系統から成り立っています。
家族関係を整理すると、次のようになります。
- 父方の祖父:東久邇宮稔彦王。終戦直後の首相を務めた旧皇族。
- 父方の祖母:聡子内親王。明治天皇の第九皇女。
- 父:東久邇宮盛厚王。東久邇宮家の継嗣。
- 母方の祖父:昭和天皇。
- 母方の祖母:香淳皇后。
- 母:成子内親王。昭和天皇の第一皇女。
- 本人:東久邇信彦。盛厚王と成子内親王の長男。
- 妻:島田吉子(結婚後の名は東久邇吉子)。
- 長男:東久邇征彦。
東久邇信彦と昭和天皇の関係は、単に遠い親戚というものではありません。昭和天皇の長女である成子内親王が母親であるため、信彦は昭和天皇の直系の孫にあたります。
昭和天皇にとって初孫だったという点も、信彦の生涯を理解するうえで重要です。母の成子内親王は、昭和天皇と香淳皇后の第一皇女として生まれ、1943年に盛厚王と結婚しました。
この婚姻によって、東久邇宮家と昭和天皇の家系は直接結びつきました。信彦はその二つの家系をつなぐ最初の孫だったのです。
なお、現在の皇室との関係を整理する際には、徳仁天皇との続柄が従兄弟であることと、信彦自身が旧皇族であって現役の皇族ではなかったことを区別する必要があります。
【出生と皇籍離脱】東京大空襲の日に生まれ、2歳で皇族の身分を失った理由
1945年3月10日、東京大空襲と重なった誕生東久邇信彦の誕生日は、1945年3月10日です。この日は、太平洋戦争末期の東京大空襲が発生した日として知られています。
信彦は東京都港区六本木の鳥居坂御殿で、盛厚王と成子内親王の第一子として誕生しました。出産時は東京大空襲の最中で、関係者による後年の回顧では、自宅の防空壕の中で生まれたと伝えられています。
戦争によって東京の市街地が甚大な被害を受けた時期に、昭和天皇の初孫が誕生したという事実は、信彦の人生を象徴する出来事の一つです。
誕生から6日後の3月16日に「信彦」と命名されました。皇族としての名前は信彦王で、戦後に皇籍を離れてからは東久邇信彦を名乗ることになります。
1947年10月14日に皇籍離脱信彦が皇族として過ごした期間は、出生からわずか2年ほどでした。
1947年(昭和22年)10月13日、戦後初の皇室会議が開かれ、翌14日には東久邇宮家を含む11宮家の51人が皇族の身分を離れました。信彦もその対象となり、2歳で皇籍離脱することになりました。
この出来事の背景には、第二次世界大戦後の日本の政治・社会制度の大転換があります。
皇室典範に基づく皇族の範囲の見直しが進められたほか、GHQの占領政策による皇室財産の凍結や各宮家の財政上の特権の廃止など、皇室を取り巻く経済的環境も大きく変わりました。
1947年10月13日の皇室会議について、国会での政府説明では、終戦後の国内外の情勢を踏まえ、皇籍を離れて一国民として国家の再建に努めたいという皇族側の意向が示されていたことが説明されています。
一方、皇室財産の縮小や戦後の財政的な事情も、皇籍離脱の背景として指摘されています。したがって、単純に個々の皇族が自由意思で民間人になることを選んだというだけでは、当時の状況を十分に説明できません。
何より、信彦は当時まだ2歳でした。本人が将来を判断して選択したわけではなく、戦後の皇室制度の再編によって、家族とともに皇族の身分を失ったのです。
【結婚と家族】妻・島田吉子との出会い、結婚の経緯と長男・征彦
妻の島田吉子とは大学時代のハワイ旅行で出会った東久邇信彦の妻は、島田吉子(しまだ・よしこ)です。結婚後は東久邇吉子の名でも知られています。
人物紹介資料によると、二人が出会ったのは信彦の大学時代。友人と訪れたハワイで島田吉子と知り合ったことが、交際につながったとされています。
島田家は横浜でアパートや駐車場の経営など、不動産管理業を営む一般家庭でした。旧皇族の家系に生まれた信彦が、皇族ではない一般家庭の女性と結婚したことは、当時の東久邇家にとっても大きな節目でした。
1972年6月に結婚、昭和天皇も祝福二人は1972年(昭和47年)6月に結婚しました。
この結婚については、侍従長を務めた入江相政の日記にも記録があります。1972年1月から3月にかけて、信彦と島田家との縁談や結婚日程について宮内関係者が話し合っていた様子が記されています。
加えて、昭和天皇に結婚の日取りが報告され、決定を喜ばれたこともうかがえます。
ツカキグループの関係者による追悼記事でも、昭和天皇が島田家の家庭的で温かな家風を好まれ、信彦と吉子の結婚を祝福したというエピソードが紹介されています。
この結婚は、旧皇族の家系であっても、戦後は一般社会の中で家庭を築いていくという東久邇家の姿を示す出来事でした。
長男・東久邇征彦は1973年4月3日生まれ結婚翌年の1973年(昭和48年)4月3日、二人の間に長男の東久邇征彦が誕生しました。
信彦にとって初めての子であり、昭和天皇と香淳皇后にとっては初めての曾孫にあたります。
東久邇征彦は、東久邇家の次世代を担う人物として知られています。信彦の生涯をたどる際には、旧皇族としての家系が祖父から父、本人、そして長男へと続いている点も押さえておきたいところです。
なお、信彦夫妻の家族については、公開されている系譜資料で確認できる範囲を超えて、私生活上の詳細を断定することはできません。
【経歴・公職一覧】皇籍離脱後の仕事と全日本野球会議などの活動
皇籍離脱後の東久邇信彦は、旧皇族という出自だけに依存することなく、民間人として教育を受け、企業勤務を経験し、さまざまな団体の活動に関わりました。
慶應義塾幼稚舎から慶應義塾で学び、慶應義塾大学法学部を卒業。その後、三井銀行に勤務したことが、2019年の訃報や関係団体の略歴でも紹介されています。
その後はスポーツ、国際交流、文化教育、伝統文化など、複数の分野で役職を務めました。主な経歴を整理すると次のとおりです。
| 時期 | 出来事・役職 | 内容・関係 |
|---|---|---|
| 1945年3月10日 | 誕生 | 盛厚王と成子内親王の長男として誕生。 |
| 1947年10月14日 | 皇籍離脱 | 11宮家51人とともに皇族の身分を離れる。 |
| 大学卒業後 | 三井銀行に勤務 | 慶應義塾大学法学部を卒業後、民間企業で勤務。 |
| 1972年6月 | 島田吉子と結婚 | 旧皇族の家系から一般家庭の女性を妻に迎える。 |
| 1973年4月3日 | 長男・征彦が誕生 | 東久邇家の次世代につながる長男が誕生。 |
| 2008年6月 | 全日本野球会議名誉会長 | 日本野球界に関わる組織の名誉職に就任。 |
| 晩年 | 国際交流・文化教育活動 | 日本タイ協会、世界連邦文化教育推進協議会などで活動。 |
| 2019年3月20日 | 逝去 | 74歳で死去。 |
信彦が務めた役職の中でも、全日本野球会議名誉会長は特徴的です。
全日本野球会議は、プロ野球、社会人野球、学生野球、軟式野球などの関係団体が、日本野球界全体の課題について協議する組織です。
野球は競技レベルや所属団体によって運営上の事情が異なります。各組織の連携や競技全体の発展を考える場において、信彦は名誉会長という立場を担いました。
ここで注意したいのは、信彦が野球選手や監督として活動した人物ではないという点です。野球界の関係団体における名誉職を務めた人物であり、競技者としての実績と混同してはいけません。
日本タイ協会常務理事と国際交流日本タイ協会では常務理事を務めました。日本とタイの友好関係を支える団体に関わり、国際交流の分野でも活動していたことが、訃報や関係団体の略歴に記されています。
旧皇族の家系という背景を持ちながら、民間の団体を通じて国際的な交流活動に携わっていた点は、皇籍離脱後の信彦の活動を理解するうえで重要です。
世界連邦文化教育推進協議会の会長信彦は世界連邦文化教育推進協議会の会長も務めました。
同協議会は、世界連邦運動に関連する文化・教育分野の団体です。世界連邦運動は、国際的な協力や平和を目指す考え方を基盤としています。
同団体の組織紹介でも、東久邇信彦が会長を務めていたことが確認できます。
その他に歴任した名誉職信彦の活動は、野球や国際交流だけにとどまりません。関係団体の略歴や人物紹介では、次のような役職も紹介されています。
- 特定非営利活動法人・国際安心安全協会の最高顧問(名誉最高顧問)。
- 富士山大賞大会長。
- 崇敬会「東郷会」名誉会長。
- 日本の伝統を守る会名誉会長。
- 日本モンテネグロ友好協会名誉総裁。
- 日米友好の架け橋実行委員会名誉顧問。
こうした役職を並べると、信彦がスポーツ、文化、国際交流、伝統文化といった幅広い分野に関わっていたことが分かります。
皇籍離脱後の人生を、単に「元皇族」という肩書だけで説明するのは十分ではありません。大学教育を受け、企業に勤務し、その後は複数の団体で社会活動に携わったという職業・社会活動の経歴にも目を向ける必要があります。
【晩年と逝去】2019年3月20日、74歳で迎えた生涯の終わり
東久邇信彦は、2019年(平成31年)3月20日、東京都内の自宅で亡くなりました。享年74歳でした。
テレビ朝日ニュースや当時の報道によると、亡くなる前には病気療養が続いていました。2019年3月8日には、当時の天皇皇后両陛下、現在の上皇ご夫妻が、見舞いのため東京都港区の自宅を訪問されています。
昭和天皇の初孫として生まれ、戦後の制度改革によって2歳で皇籍を離れた信彦にとって、皇室との血縁関係は生涯にわたる重要な背景でした。晩年に上皇ご夫妻が自宅を訪問されたことも、家族としてのつながりを伝える出来事です。
2019年3月20日の訃報が伝えたもの逝去が報じられた際、各メディアは信彦を「昭和天皇の初孫」「天皇陛下のおいにあたる元皇族」と紹介しました。
報道では、1945年の誕生、1947年の皇籍離脱、慶應義塾大学卒業後の三井銀行勤務、日本タイ協会常務理事や全日本野球会議名誉会長としての活動などが伝えられました。
2019年は、平成から令和へと時代が移る直前の年でもあります。信彦は平成最後の春、昭和天皇の初孫として歩んだ74年の生涯を閉じました。
その人生には、戦争、戦後改革、皇室制度の変化、民間人としての生活、家族の形成、社会活動という、日本の近現代史の大きな転換点が重なっています。
【よくある質問】東久邇信彦に関するFAQ
Q1:東久邇信彦は昭和天皇の息子ですか?
A1:息子ではありません。昭和天皇の第一皇女・成子内親王と東久邇宮盛厚王の長男です。そのため昭和天皇にとっては初孫にあたり、徳仁天皇とは従兄弟の関係です。
Q2:東久邇信彦が皇籍離脱した理由は何ですか?
A2:1947年の戦後の皇室制度改革によるものです。10月13日の皇室会議を経て、翌14日に東久邇宮家を含む11宮家51人が皇族の身分を離れました。占領政策による皇室財産の凍結や宮家の財政基盤の縮小なども背景にありました。当時2歳だった信彦本人の意思による選択ではありません。
Q3:東久邇信彦の妻と子供は誰ですか?
A3:妻は島田吉子(結婚後は東久邇吉子)です。1972年6月に結婚し、1973年4月3日に長男の東久邇征彦が誕生しました。大学時代に友人と訪れたハワイで吉子と出会ったと紹介されています。
Q4:東久邇信彦はどのような仕事をしていましたか?
A4:慶應義塾大学法学部を卒業後、三井銀行に勤務しました。その後、全日本野球会議名誉会長、日本タイ協会常務理事、世界連邦文化教育推進協議会会長など、スポーツ・国際交流・文化教育に関する役職を歴任しました。
Q5:東久邇信彦はいつ亡くなりましたか?
A5:2019年3月20日です。東京都内の自宅で亡くなり、享年74歳でした。亡くなる12日前の3月8日には、上皇ご夫妻が見舞いに訪問されています。
東久邇信彦は、1945年3月10日に東京大空襲の日と重なる時期に誕生した、昭和天皇・香淳皇后の初孫です。父は盛厚王、母は成子内親王という、皇室と東久邇宮家の双方につながる家系に生まれました。
しかし、戦後の皇室制度改革によって、1947年10月14日にわずか2歳で皇籍を離脱。その後は慶應義塾大学で学び、三井銀行に勤務し、1972年には島田吉子と結婚しました。長男の征彦にも恵まれ、社会人としてスポーツや国際交流、文化教育などの活動に携わりました。
特に注目すべきなのは、信彦の人生が「旧皇族」という一つの肩書だけでは説明できないことです。皇室との血縁を持ちながらも、戦後は民間人として家庭を築き、企業や各種団体を通じて社会と関わり続けました。
東久邇信彦の生涯を知ることは、東久邇宮家の家系図を理解するだけでなく、1947年の皇籍離脱が個々の家族の人生にどのような変化をもたらしたのかを知ることにもつながります。
2019年3月20日に74歳で逝去した信彦。その歩みは、昭和から平成へと続いた日本の歴史と、旧皇族が戦後社会で築いてきた新しい生活の一端を伝えています。