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【4】なぜ「平民宰相」と呼ばれた?原敬の政治姿勢と人気の理由

波多野 遼 波多野 遼 • 更新: • 公開: • 読了約 11 分
目次

原敬を語るうえで欠かせない呼び名が「平民宰相」です。

この呼称が広まった理由は、当時の首相としては異例の経歴にありました。

爵位を持たず、衆議院議員から首相になった

明治・大正期の日本では、華族制度が存在し、政治の中枢には公爵や侯爵などの爵位を持つ人物が多くいました。

首相も元老や藩閥と関係の深い人物が就任することが珍しくありませんでした。

一方、原敬は爵位を持たず、衆議院議員として政治活動を続けてきた人物です。

しかも、衆議院に議席を持つ人物として初めて首相に就任したことも、大きな特徴でした。

そのため、貴族階級に属さない首相という意味で「平民宰相」と呼ばれ、当時の国民から親しみを持って受け止められました。国立公文書館も、この呼称と原敬の政治的立場を紹介しています。

「平民」は貧しい一般庶民だったという意味ではない

ここには、誤解しやすいポイントがあります。

原敬は南部藩士の家に生まれた人物であり、現代的な意味で一般庶民の家庭から政治家になったと単純化することはできません。

「平民宰相」の平民とは、主として華族の爵位を持たないことを指しています。

つまり、原敬の象徴性は出自の貧富だけではなく、爵位や藩閥の肩書ではなく、政党と議会を基盤として首相になった点にありました。

人気の背景には政治の変化への期待があった

1918年の米騒動によって、国民の生活と政治への不満が表面化していました。

こうした状況で、政党の代表が首相となったことは、政治が一部の有力者だけで動く時代から変わるのではないかという期待を生みました。

原敬の人気は、個人の親しみやすさだけでなく、政党政治への期待を背負ったものでもあったのです。

ただし、政党政治を進めた原敬自身も、すべての国民に政治参加の機会を広げたわけではありません。この点は、次に見る普通選挙への姿勢と深く関係しています。

【5】原敬は普通選挙に反対した?選挙政策に見る功績と限界

原敬何した人

原敬の政治を評価する際、特に議論になるのが普通選挙への姿勢です。

政党政治を前進させた人物である一方、すべての成人男性に選挙権を認める普通選挙には慎重でした。

1919年、選挙権の納税条件を引き下げた

当時の日本では、衆議院議員選挙に参加するために一定額以上の直接国税を納める必要がありました。

原内閣は1919年に選挙法を改正し、納税資格を直接国税10円以上から3円以上に引き下げました。

この変更によって、選挙に参加できる人の数は大きく増加します。

国立公文書館の資料によると、有権者数は次のように変化しました。

- 1918年10月時点:約146万人
- 1920年5月時点:約304万人

つまり、選挙権を持つ人の数は約2倍になったのです。

なぜ普通選挙には消極的だったのか?

原敬は、選挙権の段階的な拡大には取り組みましたが、納税要件を完全に撤廃することには反対しました。

その背景には、当時の社会秩序を維持したいという政治的な考え方がありました。

原敬は、急激に選挙権を拡大することが社会の混乱につながる可能性を警戒していました。

また、1919年の帝国議会では、普通選挙の早期実現を求める野党の憲政会と、時期尚早とする原内閣が対立しました。

原内閣は解散総選挙に踏み切り、選挙では政友会が勝利しています。

原敬の普通選挙への姿勢をどう評価するべきか

原敬の政策には、二つの側面があります。

一つは、納税資格の引き下げによって有権者を増やしたことです。これは当時の制度の枠内で実現した選挙権拡大でした。

もう一つは、普通選挙を求める社会の動きに対して慎重であり、納税要件の撤廃を認めなかったことです。

最終的に、納税資格を撤廃した男子普通選挙法が成立したのは、1925年の加藤高明内閣の時代です。

ただし、1925年の普通選挙も女性には選挙権を認めていませんでした。女性を含む男女普通選挙の実現は、戦後の1945年まで待つことになります。

したがって、原敬は民主主義を完成させた政治家ではありません。政党政治の発展に貢献しながらも、選挙権の拡大については当時の社会秩序を優先した政治家だったと評価できます。

【6】原敬の暗殺理由とは?1921年の東京駅暗殺事件の真相

原敬の生涯を語るうえで避けて通れないのが、1921年11月4日に起きた東京駅での暗殺事件です。

現職の内閣総理大臣が駅構内で刺殺されたこの事件は、日本の政治史に大きな衝撃を与えました。

事件は1921年11月4日、東京駅で発生

1921年11月4日、原敬は立憲政友会の近畿大会に出席するため、京都へ向かおうとしていました。

午後7時25分ごろ、東京駅で原敬は男に刃物で刺されます。

犯人は、中岡艮一(なかおか・こんいち)という19歳の鉄道職員でした。

中岡は大塚駅で転轍手を務めていた人物です。

国立国会図書館が公開する阪谷芳郎の日記には、原首相暗殺の報を受けた当日の記録が残されています。

犯人の名前や当時の混乱を伝える貴重な同時代史料です。

なぜ原敬は暗殺されたのか?

暗殺の動機については、政党政治への反発や原内閣への不満などが挙げられてきました。

国立国会図書館の近代日本史料では、中岡が立憲政友会の党利党略に憤っていたことが事件の背景として説明されています。

原内閣は政党政治を推進した一方、政党の利益を優先する政治への批判も受けていました。

普通選挙の実現に消極的だったことも、当時の政治への不満と結び付けて論じられることがあります。

一方、暗殺の動機を政治思想だけで説明することには慎重さも必要です。

歴史学者の筒井清忠氏は、PHP研究所の『Voice』で、犯人の個人的な不遇や失恋など、私生活上の事情にも注目した見解を紹介しています。

このように、犯行の動機には複数の説明が存在します。政党政治への反発だけが唯一の原因だったと断定することはできません。

東京駅暗殺事件が日本政治に与えた影響

原敬の死は、日本の政党政治にとって大きな痛手となりました。

原敬は、立憲政友会をまとめる強い指導力を持っていました。その指導者を突然失ったことで、後継総裁の選定は難航します。

最終的には高橋是清が後継の首相・政友会総裁となりましたが、その内閣は党内の対立などから短命に終わりました。

国立国会図書館の史料によれば、原敬の暗殺は現職首相が殺害された憲政史上初めての事件であり、政界に大きな衝撃を与えました。

原敬の最期が残した歴史的な教訓

原敬の死は、政治的な対立や社会的不満が暴力に結び付いたとき、政治制度そのものが大きな打撃を受けることを示しました。

原敬が築こうとした政党政治は、個人の指導力に依存する部分も少なくありませんでした。

そのため、彼の死後に政党のまとまりが揺らいだことは、政党政治を安定させるには、指導者だけでなく組織や制度そのものを強くする必要があることを浮き彫りにしました。

【原敬は何をした人?】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:原敬は何をした人ですか?

A1:1918年に日本初の本格的政党内閣を組織した政治家です。鉄道網の整備、高等教育の拡充、国勢調査の実施、国際協調外交などにも取り組みました。

Q2:原敬が平民宰相と呼ばれた理由は何ですか?

A2:爵位を持たず、衆議院議員として活動していた人物が首相になったためです。華族や藩閥出身の政治家が多かった時代に、政党を基盤として首相に就任したことが注目されました。

Q3:原敬は普通選挙に賛成していましたか?

A3:普通選挙の即時実施には消極的でした。ただし、1919年には選挙権の納税条件を直接国税10円以上から3円以上に引き下げ、有権者数を増やしています。

Q4:原敬を暗殺した犯人は誰ですか?

A4:中岡艮一です。1921年11月4日、東京駅で原敬を刃物で刺しました。当時19歳で、大塚駅の転轍手を務めていました。

Q5:原敬の内閣はどれくらい続きましたか?

A5:1918年9月29日から1921年11月4日までです。首相官邸の記録によると、在職日数は1,133日でした。

Q6:原敬の後に首相になったのは誰ですか?

A6:高橋是清です。原敬の暗殺後、政友会の後継総裁となり、1921年11月13日に首相に就任しました。

原敬は、新聞記者、外交官を経て政治家となり、1918年に日本初の本格的政党内閣を組織した人物です。

その功績は、単に首相になったことだけではありません。

- 立憲政友会を率いて政党政治を前進させた
- 鉄道や交通インフラの整備を推進した
- 大学令などを通じて高等教育を拡充した
- 1920年の第1回国勢調査を実現した
- 中国政策の転換や国際協調外交を進めた

一方、普通選挙の実現には慎重であり、納税資格の撤廃を認めませんでした。政党政治の発展に貢献しながらも、政治参加の拡大には限界を設けた人物だったのです。

【プロの結論】原敬を理解する3つの視点

1. 政党政治の転換点をつくった人物

原敬は、政党が政権運営の中心を担う道を切り開きました。日本の議会政治を考えるうえで欠かせない存在です。

2. 社会の基盤を整えた実務型の政治家

鉄道、教育、統計、外交など、幅広い分野で具体的な政策を進めました。政治制度だけでなく、国の行政能力や産業基盤を整えることにも力を注いでいました。

3. 功績と限界を両方見ることが大切

平民宰相という呼び名から、原敬を民主主義の理想を完全に実現した政治家と捉えるのは正確ではありません。普通選挙への慎重姿勢や政党政治の課題も含めて評価する必要があります。

原敬は、近代日本の政党政治を大きく前進させた一方、その発展がまだ不完全だった時代を象徴する政治家です。

1921年の東京駅暗殺事件によってその生涯は突然終わりましたが、政党政治、教育制度、交通網、統計行政に残した足跡は、日本の近代史を理解するうえで今も重要な意味を持っています。

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波多野 遼
トレンドリサーチャー 波多野 遼
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映画・ドラマの公開情報を追う担当。配給会社のプレスシートと公式サイトの記載を基準に、あらすじと出演情報をまとめます。

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