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不便益とは何か?素数ものさし・COGY・京都大学の研究から仕組みと活用条件を徹底解説

小野寺 翔 小野寺 翔 • 更新: • 公開: • 読了約 27 分
目次

不便益(ふべんえき)とは、あえて手間や不便を残すことで、便利さだけでは得られない価値を生み出す考え方だ。例えば、素数の位置にしか目盛りがない「素数ものさし」は、長さを測るために計算や工夫を必要とする。しかし、その手間が数学的な思考力や発見する楽しさにつながる。単に使いにくい道具を作るのではなく、利用者が自分で考え、行動する機会を設計する点に特徴がある。

この考え方を体系的に研究してきた人物が、京都大学で研究活動を展開し、現在は京都先端科学大学工学部教授を務める川上浩司氏だ。2026年現在、不便益は教育、製品開発、福祉、まちづくり、サービス設計などを考えるうえでも示唆を与えている。足こぎ車いす「COGY」やシェアードスペースなどの事例を手掛かりに、便利との違い、得られるメリット、注意すべきデメリット、実際の活用条件まで整理する。

【不便益とは?】意味・定義と便利との違いをわかりやすく解説

不便益とは
不便益の意味は「不便だからこそ得られる利益」

不便益は、「不便」と「益」を組み合わせた言葉である。英語ではBenefit of Inconvenienceなどと表現される。

この概念を研究してきた川上浩司氏は、不便の効用を、不便でなければ得られない益という意味で不便益と名付けている。

不便でなければ得られない益

これは川上氏の2019年の論考「不便にしてQOLを向上させる」に示された基本的な考え方だ。

ここで重要なのは、不便益が単なる我慢や非効率を意味しないことである。

例えば、スマートフォンの地図アプリを使えば、目的地までの経路を短時間で確認できる。一方、紙の地図を広げて自分で道を探せば、周辺の地理や建物の位置関係を理解しやすくなる。

目的地に到着するという結果だけを比較すれば、スマートフォンの方が便利だ。しかし、自分で地図を読み、道順を考える過程には、空間認識や判断力を養うという別の価値がある。

このように、作業の効率だけでは評価できない価値を見いだすのが不便益の基本である。

不便益の定義における「不便」と「益」

川上氏の2019年の研究論考では、不便を客観的に捉えるため、特定のタスクを達成するのに必要な労力が多くかかる状態として整理している。

ここでいう労力には、主に次の2種類がある。

  • 物理的な労力:手足を動かす、歩く、組み立てる、道具を操作するといった身体的な手間。
  • 心理的な労力:考える、判断する、工夫する、情報を探すといった頭を使う手間。

そして、その手間をかけることで得られるものが益に当たる。

具体的には、技能の向上、発見する喜び、自己肯定感、意欲、主体性、対象への理解などが挙げられる。

つまり、不便益を考える際には「どれだけ面倒なのか」だけでなく、「その面倒を経験した結果、何が得られるのか」を見る必要がある。

不便益と便利の違いは評価する価値の軸にある

便利と不便益は、必ずしも正反対の関係ではない。両者は、何を価値として重視するかが異なる。

便利さは、作業時間や労力を減らし、目的を効率的に達成することを重視する。一方、不便益は、目的を達成するまでの過程にある経験や成長にも目を向ける。

  • 便利:早く終わる、簡単にできる、操作が少ない、失敗しにくい。
  • 不便益:自分で考える、試行錯誤する、技能が身につく、達成感を得る。

例えば、料理の献立を自動提案するサービスは、考える手間を減らしてくれる。しかし、自分で食材を選び、調理方法を工夫すれば、料理の知識や食生活への主体性が育つ可能性がある。

どちらが優れているかは、利用者の目的や状況によって変わる。時間がないときには便利さが必要であり、学習や創造性を育てたいときには、あえて考える余地を残すことが有効になる。

【不便益の仕組み】なぜ手間をかけると学びや主体性が生まれるのか

仕組みの核心は人間がシステムに関与する余地を残すこと

不便益が生まれる背景には、人間と道具、サービス、環境との関係がある。

便利さを徹底的に追求すると、人間が担っていた判断や操作を機械が代行するようになる。これは作業負担を軽減する一方、利用者が対象を理解したり、自分なりの工夫をしたりする機会を減らす場合がある。

例えば、すべての操作が自動化された機械では、利用者は結果を受け取るだけになりやすい。対して、一部の操作を自分で調整できる機械なら、使いながら仕組みを理解し、操作方法を習得できる。

川上氏が2012年に発表した論文「不便益と共創」では、不便益を実現するためのデザイン指針として、次のような方向性が示されている。

  • 可視性を高める:手間を通じて対象の仕組みや状態を理解できるようにする。
  • 気付きの機会を拡大する:利用者が自分で発見できる余地を残す。
  • 能動的な工夫の余地を与える:決められた操作だけでなく、自分なりの方法を試せるようにする。
  • 習熟を飽和させない:使い続けることで新しい技能や工夫が生まれるようにする。

これらは、単純に操作を複雑にするという意味ではない。利用者が関わることで新しい価値が生まれるよう、システムそのものを設計する考え方だ。

不便益が生み出す4つの心理的・行動的な変化

1. 自己肯定感が高まる

自分で考え、試行錯誤し、問題を解決できた経験は、自分の能力に対する肯定的な感覚につながる。機械がすべてを処理する場合には得にくい達成感である。

2. 自発的な動機付けが生まれる

利用者が自分で操作や方法を選べると、受け身ではなく主体的に取り組みやすくなる。学習や仕事においても、単に指示された作業をこなす場合とは異なる意欲が生まれる。

3. 自分に合った使い方を発見できる

すべてが固定された仕組みではなく、工夫の余地があれば、利用者は自分の能力や好みに合わせた使い方を見つけられる。

4. 人との交流や共創が生まれる

一人では解決しにくい不便を他者と協力して乗り越えることで、会話や情報交換が発生する。手間が人間関係やコミュニティを形成するきっかけになる場合もある。

川上氏の2012年の論文では、不便による効用として、自己肯定感、動機付け、パーソナライゼーション、安全に裏付けられた安心などが整理されている。

【不便益の具体例】素数ものさし・COGY・シェアードスペースを比較

不便益の特徴を理解するには、実際に手間がどのような価値へ変わるのかを見るのが近道だ。代表的な事例には、京都大学の研究活動から生まれた文房具、身体を使って移動する車いす、交通空間の設計などがある。

素数ものさし:数学の知識を使わなければ測れない定規

素数ものさしは、目盛りが素数の位置にしかない竹製のものさしだ。

通常の定規には1cm、2cm、3cmというように連続した目盛りがある。しかし、素数ものさしでは、2、3、5、7、11、13、17などの位置にしか目盛りがない。

そのため、例えば4cmを測る場合は、7cmと3cmの目盛りの間隔を利用する。6cmなら11cmと5cmの間隔を使う。

普通の定規なら一目で分かる長さでも、素数ものさしでは引き算や位置関係を考えなければならない。

この不便によって、利用者は素数の性質を学び、計算する機会を得る。長さを測る道具でありながら、数学的な思考を促す教材としても機能するわけだ。

不便益システム研究所の公式記録によると、このアイデアは2012年の京都大学サマーデザインスクールで生まれた。参加者のアイデアをもとに商品化が進み、2013年3月に京都大学生協で販売が始まった。

単に使いやすい定規を作るのではなく、使う人に考える機会を提供するという発想が、商品の独自性につながっている。

COGY:自分の足で移動する可能性を生み出す足こぎ車いす

COGY(コギー)は、ペダルを足でこいで進むタイプの車いすだ。

一般的な車いすでは、手で車輪を操作したり、介助者が押したり、電動モーターを利用したりする方法がある。それに対し、COGYは利用者自身が足を動かして移動することを目指した製品である。

開発の背景には、東北大学名誉教授の半田康延氏らによる研究がある。

製品の説明によると、片方の足を動かした際に、脊髄の原始的歩行中枢を介した反射的な働きによって、もう片方の足も動く可能性があるという。メーカーは、この仕組みに関連する考え方をニューロモジュレーションとして説明している。

重要なのは、COGYが単に移動の手間を増やす製品ではないことだ。利用者が身体を使って自分で進むという経験に価値を見いだせる点にある。

川上氏の2019年の論考でも、足こぎ車いすは不便益の事例として取り上げられている。本人が足を使って移動することによって得られる身体的な活動や、自分の力で移動する楽しさが、その価値として説明されている。

ただし、COGYは川上氏や京都大学の不便益研究所が開発した製品ではない。東北大学の半田氏らの研究を背景に、株式会社TESSが開発・事業化した製品である。両者は別の研究・開発の系譜に属しながら、人が主体的に関与することに価値を見いだす点で接点がある。

また、メーカーは効果に個人差があり、効果や研究成果を保証するものではないと説明している。すべての利用者に同じ身体的効果が生じるわけではない。

シェアードスペース:道路の利用者が自分で判断する空間

シェアードスペースは、歩行者、自転車、自動車などが道路空間を共有する考え方だ。

一般的な道路では、歩道と車道を分け、信号や標識によって通行方法を明確にする。シェアードスペースでは、こうした交通上の規則や分離を最小限にし、利用者同士が周囲の状況を把握して行動することを重視する。

川上氏は2012年の論文「不便益と共創」で、欧州のシェアードスペースを、自分で状況を把握し、考え、判断する必要がある空間の例として紹介している。

ここでは、信号に従うだけの行動とは異なり、他の道路利用者の動きや意思を読み取る必要がある。その不便が、周囲への注意や他者との相互理解を促す可能性がある。

ただし、交通安全を犠牲にしてまで規制を取り払うことが目的ではない。国際交通安全学会誌に掲載された2022年の研究論説「国内外におけるシェアードスペースの取り組み」でも、歩行者の安全性や快適性を重視した普及の動向が整理されている。

代表的な不便益事例と関係者の整理

これらの事例は、同じ不便益という考え方に関係していても、開発主体や得られる価値は異なる。関係を整理すると次のようになる。

事例・エンティティ 関係者・背景 残されている不便 期待される益
素数ものさし 京都大学不便益システム研究所、京都大学サマーデザインスクール参加者 目盛りが素数の位置にしかない 計算力、数学的思考、発見する楽しさ
COGY 東北大学の半田康延氏ら、株式会社TESS 利用者自身が足でペダルをこぐ 自力で移動する可能性、身体活動、主体性
シェアードスペース 交通計画・道路設計の関係者 交通上の分離や規則を最小限にする 周囲への注意、相互理解、状況判断
バリアアリー 川上浩司氏の2019年の研究論考で紹介された介護施設の事例 施設内に管理された軽微な段差などを設ける 身体能力の維持、生活への主体性
凸凹園庭 川上浩司氏の2019年の研究論考で紹介された幼稚園の事例 園庭を平坦にせず起伏を残す 身体活動、遊びの工夫、創造性
バリアアリーと凸凹園庭:身体を使う環境のデザイン

川上氏の2019年の論考には、山口県のデイケアセンターで採用されている「バリアアリー」という考え方も紹介されている。

バリアアリーとは、バリアフリーとは異なり、施設内に軽微な段差や階段などをあえて残す考え方だ。

もちろん、無条件に段差を増やすという意味ではない。論考で紹介されている施設では、長年の経験を持つ作業療法士が環境を設計し、利用者の身体能力や生活状況を考慮している。

必要以上に介助することで、利用者が自分で動く機会を失う可能性がある。自分でできることを自分で行える環境を整えることが、身体能力や主体性の維持につながるという考え方だ。

また、凸凹園庭は、平らな地面よりも起伏のある地面を使うことで、子どもたちの身体活動や遊び方に変化を生み出す事例として紹介されている。

同じ場所でも、環境に少し工夫を加えることで、利用者の行動や発想が変わる。不便益のデザインは、道具だけでなく空間にも応用できる。

【不便益のメリット・デメリット】導入する前に知っておきたい注意点

不便益のメリットは学習・主体性・創造性にある

不便益を取り入れる最大の利点は、利用者が自分で考えたり、行動したりする機会を確保できることだ。

メリット1:学習効果を高める機会になる

答えを自動で表示するのではなく、自分で考える過程を残すことで、知識の理解や応用につながる可能性がある。素数ものさしは、その代表的な例だ。

メリット2:主体性を育てられる

すべてをサービスや他人に任せるのではなく、自分で選択する余地があると、生活や仕事に対して主体的に関わりやすくなる。

メリット3:創造性や問題解決力を引き出せる

正解が一つに固定されていない環境では、利用者は自分なりの方法を考える。試行錯誤を通じて、新しい発想が生まれる可能性がある。

メリット4:達成感や満足感が得られる

自分の工夫によって問題を解決できた経験は、結果を受け取るだけでは得にくい喜びにつながる。

メリット5:人との交流が生まれる

少し難しい課題に複数人で取り組むことで、相談や協力が必要になる。こうした過程が、コミュニケーションや共創のきっかけになる。

不便益のデメリットは時間・負担・安全性の問題

一方で、不便益には注意すべき点もある。

デメリット1:時間や労力が余計にかかる

不便を残せば、作業時間や身体的負担が増える可能性がある。時間短縮や業務効率が最優先される場面では、かえって生産性を下げてしまう。

デメリット2:利用者によっては負担が大きい

同じ操作でも、年齢、身体能力、知識、経験によって感じる難しさは異なる。ある人には学びとなる手間が、別の人には利用を妨げる障壁になることもある。

デメリット3:安全性が損なわれる可能性がある

医療、交通、防災、緊急対応など、失敗が重大な結果につながる領域では、不必要な手間を増やすべきではない。シェアードスペースやバリアアリーも、安全性を前提とした設計が不可欠だ。

デメリット4:単なる不便と不便益を混同しやすい

操作が複雑なだけのサービスや、説明不足の製品は、利用者にストレスを与えるだけである。手間を増やしても、学習や達成感などの利益が生まれなければ、不便益とは呼びにくい。

デメリット5:利用者に選択肢がないと不満につながる

便利な方法があるにもかかわらず、不便な方法を強制されれば、利用者は自分で選ぶ機会を失う。主体性を育てるはずの仕組みが、逆に主体性を奪う結果になりかねない。

不便益は、あらゆる不便を正当化する理論ではない。何のために手間を残すのか、誰にとって価値があるのかを見極める必要がある。

【川上浩司と京都大学の不便益研究】研究の歩みと2026年の現在地

川上浩司氏とは?不便益研究を進めてきたシステムデザインの専門家

川上浩司(かわかみ・ひろし)氏は、システム工学、システムデザイン、人間と機械の関係を専門とする研究者だ。

京都大学で工学を学び、岡山大学工学部の助手などを経て、1998年に京都大学情報学研究科の助教授に就任。その後、准教授、京都大学デザイン学リーディング大学院の特定教授などを歴任した。

現在は京都先端科学大学工学部機械電気システム工学科の教授として研究・教育に携わっている。京都先端科学大学の公式教員紹介でも、専門分野としてシステムデザイン、システム工学、人間機械系が挙げられている。

研究の特徴は、技術の高機能化や自動化だけを追い求めるのではなく、人間がシステムに働きかけることの意味を考える点にある。

川上氏が代表を務める不便益システム研究所では、不便だからこそ得られる効用を集め、その共通点を分析し、新しい製品やサービスのデザインに活用する活動が進められてきた。

京都大学の不便益研究はいつから始まったのか

不便益研究は、一つの製品を開発するためだけの活動ではない。人間と人工物の関係を見直し、システムの設計思想そのものを検討する研究として展開してきた。

研究の主な節目を整理すると、次のようになる。

  • 2009年:川上氏が「不便の効用に着目したシステムデザインに向けて」を発表。人間と機械が共生するシステム設計の観点から不便益を論じた。
  • 2012年:計測自動制御学会の学術誌『計測と制御』に「不便益と共創」を発表。同年の京都大学サマーデザインスクールでは、素数ものさしにつながるアイデアが生まれた。
  • 2013年3月:素数ものさしの京都大学生協での販売が始まる。
  • 2017年:京都大学の不便益システム研究所が、研究活動や不便益を活用するデザインの方向性を発信。
  • 2019年:川上氏が「不便にしてQOLを向上させる」を発表。生活の質と不便益の関係を論じた。
  • 2021年:計測自動制御学会誌『計測と制御』に、川上氏による不便益の発想支援や効率・機能性とは異なる価値軸に関する論考が掲載された。
  • 2025年9月:京都先端科学大学が、川上教授と大学院生によるNHK Eテレ『沼にハマってきいてみた』への出演を告知。不便益をテーマにした研究や「左折オンリーツアー」が紹介された。
  • 2026年:京都先端科学大学の教員紹介では川上氏が工学部教授として掲載され、J-GLOBALの研究者情報も2026年8月17日付で更新されている。

こうした歩みから分かるのは、不便益が一時的な話題の商品開発ではなく、研究、教育、実社会への応用を横断するテーマとして続いていることだ。

京都大学から京都先端科学大学へ:研究の拠点と現在の位置づけ

不便益といえば京都大学を連想する人は多い。実際、京都大学の情報学研究科やデザイン学ユニットは、川上氏の研究活動や不便益システム研究所の展開に深く関わってきた。

ただし、2026年現在の川上氏の所属は京都大学ではなく、京都先端科学大学である。

この違いは押さえておきたい。京都大学の不便益研究は歴史的な研究基盤であり、現在の川上氏の所属先と研究活動の拠点は京都先端科学大学だ。

また、京都先端科学大学は2025年9月17日付の公式発表で、川上教授と研究科生が同月20日放送のNHK Eテレ番組に出演すると告知した。番組では大学を出て「左折オンリーツアー」に参加する内容が紹介された。

目的地へ最短距離で向かうのではなく、左折だけで移動するという制約を設けることで、普段とは異なる経路や発見を生み出す発想だ。日常の行動に小さな制約を設け、そこから新しい経験を引き出すという不便益の考え方を伝える事例になっている。

【不便益デザインの活用方法】教育・仕事・サービスに取り入れる条件

教育では答えを与えすぎない設計が効果を生む

教育分野は、不便益を活用しやすい領域の一つだ。

例えば、計算問題の答えをすぐに表示するのではなく、途中の考え方を自分で組み立てる課題にする。地図アプリの案内に頼り切らず、紙の地図から目的地までの経路を考える活動を取り入れる方法もある。

このような学習では、正解を知ることだけでなく、そこへ到達するまでの過程が重要になる。

素数ものさしは、数学の授業で使える不便益の具体例だ。通常の定規と比較することで、素数、差、長さの関係を実感しながら学べる。

仕事では自動化と人間の判断を使い分ける

職場では、すべての作業を自動化することが必ずしも最善とは限らない。

単純な入力や集計など、時間を奪うだけの作業は自動化した方がよい。一方、企画、設計、商品開発、顧客対応など、判断や工夫が価値を生む業務では、人間が考える余地を残すことが有効になる。

川上氏の2019年の論考では、製造現場のセル生産方式も不便益の視点から取り上げられている。

ライン生産方式は、作業を細かく分担できるため効率的だ。一方、セル生産方式では、少数の作業者が一つの製品の組み立てを広く担当するため、より多くの技能や知識が必要になる。

その負担は大きいものの、複雑な製品を組み立てる技能を習得し、仕事に主体的に取り組める点に価値があると川上氏は論じている。

サービス設計では利用者が参加できる余白を残す

サービス分野では、すべてを事業者側で決めるのではなく、利用者が自分で選択したり、工夫したりできる余地を設ける方法がある。

例えば、旅行サービスなら、最短ルートを提示するだけでなく、寄り道や発見を楽しめる仕組みを用意する。料理サービスなら、完成品を提供するだけでなく、利用者が調理に参加できる選択肢を用意する。

ただし、利用者が手間を望んでいない場合まで、不便を強制する必要はない。簡単に済ませたい人には便利な方法を提供し、学びや体験を求める人には自分で取り組める方法を選べるようにすることが望ましい。

不便益を導入する際に確認したい5つの条件

実際に不便益を取り入れる場合には、次の5点を確認したい。

1. 手間をかけることで得られる益が明確か

学習、技能、主体性、達成感など、手間を残す目的を具体的に定める。

2. 利用者の能力や状況に合っているか

年齢、身体能力、経験、知識などを考慮し、過剰な負担にならないよう調整する。

3. 安全性を確保できるか

交通、医療、介護、防災などでは、事故や重大な失敗につながる不便を残さないことが前提となる。

4. 利用者に選択の自由があるか

便利な方法を必要とする人にも、適切な選択肢を提供する。強制ではなく、主体的な参加を促すことが大切だ。

5. 本当に価値が生まれているか

導入後に利用者の理解度、満足度、技能、行動の変化などを確認する。単に作業時間が延びただけなら、デザインを見直す必要がある。

不便益に向いているのは、学びや創造性、体験の質を重視する場面だ。一方、緊急性が高い作業、負担軽減が最優先される場面、利用者の安全を損なう可能性がある場面には、安易に導入すべきではない。

【不便益とは】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:不便益とは簡単にいうと何ですか?
A1:不便であることによって初めて得られる価値のことです。例えば、素数ものさしでは計算する手間が増える代わりに、数学的な思考力や発見する楽しさを得られます。

Q2:不便益と便利の違いは何ですか?
A2:便利は時間や労力を減らして目的を達成することを重視します。不便益は、あえて手間を残すことで、学び、技能、主体性、達成感などを生み出すことを重視します。どちらが適切かは利用目的によって異なります。

Q3:素数ものさしはなぜ不便益の代表例なのですか?
A3:目盛りが素数の位置にしかないため、通常の定規のように簡単には長さを測れません。その代わり、素数の性質や数の差を考える必要があり、数学的な学びや思考の機会を生み出すからです。

Q4:COGYは京都大学の不便益研究から生まれた製品ですか?
A4:いいえ。COGYは東北大学の半田康延氏らの研究を背景に、株式会社TESSが開発・事業化した足こぎ車いすです。川上浩司氏の研究論考では足こぎ車いすという方式が不便益の事例として紹介されており、両者には人の主体的な働きかけを重視するという共通点があります。

Q5:不便益にはデメリットもありますか?
A5:あります。時間や労力が増えるほか、利用者によっては身体的・心理的な負担や安全上の問題が生じます。手間をかけることで具体的な利益が生まれない場合は、単なる不便にとどまります。

Q6:不便益は日常生活でも取り入れられますか?
A6:取り入れられます。例えば、自分で献立を考える、紙の地図で道を調べる、手作業で何かを作る、旅行で寄り道をするなどです。ただし、便利な方法を否定するのではなく、自分が楽しめる範囲で手間を選ぶことが大切です。

不便益とは、単に使いにくいものを作ったり、作業を複雑にしたりすることではない。不便を通じて、便利さだけでは得られない学び、発見、主体性、達成感などを生み出す考え方である。

素数ものさしは、計算する手間を数学的な学びに変えた。COGYは、利用者自身が足を動かして移動する可能性を追求している。シェアードスペースは、道路利用者が自ら周囲を判断する空間を設計する。これらは異なる領域の事例だが、人間の関与を価値として捉える点で共通している。

川上浩司氏が京都大学で進めてきた研究は、現在の京都先端科学大学での教育・研究活動にもつながっている。2012年の素数ものさしの発想から、2019年のQOLに関する論考、2025年のNHKでの研究紹介まで、不便益は製品、教育、生活環境を横断するテーマとして展開してきた。

【プロの結論】不便益を正しく理解するための判断基準は、「その手間をなくしたら、何が失われるのか」という問いにある。

手間をなくすことで安全性や生活の質が高まるなら、便利にする方がよい。一方、手間を残すことで利用者の判断力、技能、創造性、主体性が育つなら、その不便には意味がある。

AIや自動化が多くの作業を代行するようになる2026年、人間が何を機械に任せ、何を自分で行うのかという選択は、ますます重要になっている。

すべてを効率化することが、必ずしも豊かな生活につながるとは限らない。便利さを活用しながらも、人間が考え、工夫し、自分の力で何かを成し遂げる余地を残すこと。それこそが、不便益という考え方から得られる最も重要な示唆である。

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小野寺 翔
トレンドリサーチャー 小野寺 翔
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アニメ・漫画の制作発表を担当。制作会社・出版社の公式告知と原作者コメントを確認してから記事化します。

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