2026年3月15日、大相撲の元大関・若嶋津で、元二所ノ関親方の日高六男(ひだか・むつお)さんが、肺炎のため千葉県内の病院で死去した。69歳だった。日本相撲協会は翌16日に訃報を発表した。「南海の黒豹(くろひょう)」の異名で昭和の相撲ファンを魅了し、1984年には幕内優勝2回、そのうち1回は15戦全勝という輝かしい記録を残した名大関である。
若嶋津は鹿児島県・種子島に生まれ、初代若乃花が師匠を務める二子山部屋から角界入り。大関として活躍した後は松ケ根部屋を創設し、2014年には伝統ある二所ノ関の名跡を継承した。私生活では元人気歌手の高田みづえさんとの結婚も大きな話題となった。2026年11月現在、改めて注目されているのは、土俵での強さだけではなく、親方として後進を育て、相撲界を支え続けた生涯そのものだ。
【意味と異名の由来】南海の黒豹とは若嶋津のこと?

「南海の黒豹」とは、元大関・若嶋津の代名詞として知られる愛称である。
若嶋津の特徴は、浅黒い肌、精悍な顔立ち、そして軽快で俊敏な取り口だった。体格の大きさだけで相手を圧倒するのではなく、素早い動きと巧みな技術で勝負する姿が、獲物を追う黒豹のイメージと重なった。
「南海」は鹿児島県出身という南国のルーツを連想させる表現でもある。特に種子島で育った若嶋津の出自と、黒豹を思わせる風貌や動きを組み合わせた愛称として定着した。
実際、共同通信やスポーツ紙の訃報でも、浅黒い体と俊敏な動きが愛称の背景として紹介されている。
若嶋津の本名は日高六男、四股名は若嶋津六夫ここで注意したいのが名前の表記だ。
日本相撲協会の公式プロフィールでは、四股名は若嶋津六夫(わかしまづ・むつお)、本名は日高六男(ひだか・むつお)と記載されている。
つまり、「若嶋津六男」という表記は、本名と四股名を混同したものだ。
| 項目 | 正式な情報 |
|---|---|
| 四股名 | 若嶋津六夫 |
| 本名 | 日高六男 |
| 読み方 | わかしまづ・むつお |
| 生年月日 | 1957年1月12日 |
| 出身地 | 鹿児島県熊毛郡中種子町 |
| 所属部屋 | 二子山部屋 |
| 最高位 | 東大関 |
| 身長 | 188cm |
| 得意技 | 左四つ・上手投げ・吊り |
| 死去 | 2026年3月15日 |
また、四股名の変遷は「日高」から「若島津」、そして「若嶋津」。表記の違いも、検索時に知っておきたいポイントだ。
【生い立ちと相撲人生】種子島から二子山部屋へ、若き日の挑戦
若嶋津が生まれたのは1957年1月12日。鹿児島県熊毛郡中種子町、種子島の出身である。
鹿児島の自然に囲まれて育った少年は、高校進学後に本格的に相撲に取り組むようになった。
進学先は鹿児島商工高校(現在の樟南高校)。相撲部に所属し、実力を磨いた。
初代若乃花の二子山部屋に入門1975年春場所、若嶋津は初代若乃花が師匠を務める二子山部屋から初土俵を踏んだ。
当時の初代若乃花は「土俵の鬼」と呼ばれた名横綱。厳しい稽古で知られる師匠のもとで、若嶋津は力士としての基礎を身につけていった。
最初の四股名は本名にちなんだ「日高」だった。
1980年春場所に新十両へ昇進し、この時期に「若島津」へ改名。1981年初場所には新入幕を果たし、初めての幕内でも10勝を挙げて敢闘賞を獲得した。
大型力士とは異なる俊敏な相撲若嶋津の魅力は、圧倒的な体格を武器にする力士とは異なるスタイルにあった。
身長188cmという恵まれた体格を持ちながら、当時の大型力士と比較すると比較的軽量で、スピードと技術を生かした相撲が特徴だった。
得意技は左四つからの上手投げや吊り。
相手の懐に入り、まわしを取ってから一気に攻める。力任せに押し切るのではなく、相手の体勢を崩して勝負を決める取り口だった。
こうした相撲は、若嶋津の身体的な特徴と技術がかみ合っていたからこそ成立したものだ。
1982年には関脇に昇進。同年九州場所後に大関昇進が決まり、翌1983年初場所から大関として土俵に上がった。
【大関昇進と幕内優勝2回】1984年の全勝優勝が残した伝説
若嶋津の競技人生を語るうえで欠かせないのが、1984年の2度の幕内優勝だ。
1983年に大関へ昇進した若嶋津は、翌年に実力を大きく開花させる。
1984年春場所で14勝1敗の初優勝1984年春場所、若嶋津は14勝1敗という圧倒的な成績で幕内初優勝を果たした。
大関としての実力を証明し、優勝争いの中心に立つ存在となった。
同年名古屋場所で15戦全勝さらに同年7月の名古屋場所では、15日間すべてで勝利する全勝優勝を達成。
14勝1敗での初優勝に続き、全勝という最高の形で2度目の賜杯を手にした。
幕内優勝2回という数字だけでなく、同じ1984年に14勝1敗と15戦全勝という異なる形で優勝したことが、若嶋津の実力を物語っている。
若嶋津の現役時代の主な記録日本相撲協会の公式プロフィールに掲載されている戦歴は次のとおりだ。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 初土俵 | 1975年3月場所 |
| 新十両 | 1980年3月場所 |
| 新入幕 | 1981年1月場所 |
| 新三役 | 1982年3月場所 |
| 大関昇進 | 1983年1月場所 |
| 幕内初優勝 | 1984年春場所・14勝1敗 |
| 2度目の優勝 | 1984年名古屋場所・15戦全勝 |
| 現役引退 | 1987年7月場所 |
| 幕内優勝 | 2回 |
| 敢闘賞 | 2回 |
| 技能賞 | 3回 |
| 金星 | 2個 |
| 通算成績 | 515勝330敗21休 |
| 幕内成績 | 356勝219敗13休 |
| 大関在位 | 28場所 |
出典:日本相撲協会公式・歴代大関プロフィール、日刊スポーツの人物紹介。
なぜ若嶋津は横綱になれなかったのか若嶋津は大関として大きな実績を残したが、横綱には昇進していない。
1984年に2度の優勝を達成したものの、その後は成績の安定に苦しんだ。1985年以降は角番を経験する場所も増え、力士生活の終盤には体調面の問題も重なった。
1987年名古屋場所、若嶋津は現役引退を決断する。
横綱という最高位には届かなかったが、全勝優勝を含む2度の幕内優勝と、515勝という通算成績は、昭和の大相撲を代表する大関としての存在感を十分に示している。
【高田みづえとの結婚】人気歌手と大関が築いた夫婦の歩み
若嶋津の人生を語る際、妻である高田みづえさんの存在も欠かせない。
高田みづえさんは1977年に「硝子坂」でデビューした人気歌手。「私はピアノ」「そんなヒロシに騙されて」などの楽曲でも知られ、1980年代の歌謡界で活躍した。
1985年に婚約、9月27日に結婚1985年2月、若嶋津と高田みづえさんの婚約が発表された。
当時、若嶋津は大関として人気を集め、高田さんも芸能界で活躍する歌手だった。
同じ鹿児島県出身という共通点もあり、二人の結婚は芸能界と相撲界の双方から大きな注目を集めた。
そして1985年9月27日、東京都内のホテルニューオータニで挙式・披露宴を行った。
高田さんは結婚を機に芸能界を引退。人気歌手としての活動に区切りをつけ、相撲界で夫を支える道を選んだ。
高田みづえは相撲部屋のおかみさんに1990年2月、若嶋津が松ケ根部屋を創設すると、高田さんは部屋のおかみさんとして弟子たちの生活を支えるようになった。
歌手として華やかな舞台に立っていた女性が、相撲部屋という独特の世界で裏方に徹する。その転身は決して小さなものではなかった。
2022年のNumberのインタビュー記事では、高田さんが当時の心境を振り返っている。
「よし、徹底的に裏方に徹してやろう」
歌手だった自分の名前が先に知られることへの戸惑いを抱えながらも、弟子やその家族が安心できる部屋づくりを意識していたことが伝わる。
高田さんは2022年初場所後、夫の定年に伴って32年間続けたおかみさんの役割を終えた。
若嶋津の現役時代を支えただけでなく、引退後の部屋経営を長年にわたって支えた存在だった。
【引退後の功績】松ケ根部屋から二所ノ関親方へ、相撲界での足跡
1987年7月場所で現役を引退した若嶋津は、年寄「松ケ根」を襲名した。
現役時代の名声を生かしながら、今度は指導者として後進の育成に取り組むことになる。
1990年に松ケ根部屋を創設引退後は二子山部屋の部屋付き親方として指導に携わり、1990年2月に独立。千葉県船橋市に松ケ根部屋を創設した。
部屋の立ち上げ当初は、弟子3人など少人数でのスタートだったと、Numberの高田みづえさんのインタビューでも紹介されている。
その後、若嶋津は師匠として力士の育成に力を注いだ。
代表的な弟子には、次の力士がいる。
- 松鳳山:小結まで昇進した実力者。
- 一山本:幕内で活躍した力士。
- 島津海:十両、幕内へと進んだ力士。
報道によれば、若嶋津は師匠として合計7人の関取を育てた。
2014年、伝統の二所ノ関部屋を復活2014年12月1日、若嶋津は年寄「二所ノ関」を襲名した。
これに伴い、松ケ根部屋は二所ノ関部屋へと名称を変更する。
二所ノ関部屋は、元横綱・玉錦や大鵬などを輩出した歴史ある部屋だった。2013年に閉鎖されていたが、若嶋津が名跡を継承することで再興された。
これは単なる部屋名の変更ではない。
伝統ある相撲部屋の看板を引き継ぎ、その歴史を次世代へつなぐという役割を担った出来事だった。
日本相撲協会の理事・審判部長としての仕事若嶋津は2014年4月に日本相撲協会の理事に就任。2016年3月からは審判部長も務めた。
審判部長は、本場所の取組や土俵上の運営に関わる重要な役職だ。
2016年には、立ち合いで十分に手をつかない力士や、呼吸が合わないまま立ち上がるケースなどについて、力士会で注意を促したことが報じられている。
勝負の公正さや土俵上の所作を守るという、競技運営の重要な役割を担っていた。
二所ノ関部屋の名称と歴史はどう変わった?若嶋津の親方としての歩みを理解するには、松ケ根部屋と二所ノ関部屋の関係を整理しておく必要がある。
| 年月 | 部屋・名跡の動き | 関係者 |
|---|---|---|
| 1987年7月 | 引退し年寄松ケ根を襲名 | 若嶋津 |
| 1990年2月 | 松ケ根部屋を創設 | 若嶋津 |
| 2014年12月 | 二所ノ関を襲名し、部屋名を変更 | 若嶋津 |
| 2021年12月 | 部屋を放駒親方が継承 | 元関脇・玉乃島 |
| 2021年末 | 年寄名跡を荒磯親方と交換 | 元横綱・稀勢の里 |
| 2022年1月 | 若嶋津が定年を迎える | 元二所ノ関親方 |
| 2023年7月 | 日本相撲協会を退職 | 日高六男 |
2021年末には、元横綱・稀勢の里の荒磯親方が年寄「二所ノ関」を襲名した。一方、若嶋津が率いていた旧二所ノ関部屋は放駒親方が継承し、放駒部屋となった。
つまり、2026年現在の二所ノ関部屋は、若嶋津が最後まで師匠を務めた部屋と同一の運営体制ではない。
この名跡と部屋の継承関係を理解すると、相撲界の歴史がより明確になる。
【晩年と2026年の訃報】2017年の転倒から最期まで
若嶋津の晩年には、健康面で大きな試練があった。
特に2017年10月の事故は、相撲界に大きな衝撃を与えた出来事だった。
2017年10月、船橋市内の路上で転倒2017年10月19日、若嶋津は千葉県船橋市内の路上で倒れているところを発見された。
当時は日本相撲協会の理事で、二所ノ関部屋の師匠、審判部長も務めていた。
病院に搬送され、約4時間半に及ぶ頭部の緊急手術を受けた。一時は意識不明の状態となり、容体が心配されていた。
妻の高田みづえさんや関係者が病院で回復を見守る中、同年12月には意思疎通ができる程度まで意識が回復したと報じられた。
その後もリハビリを続け、療養生活を送ることになった。
2022年に定年、2023年に協会を退職2022年1月11日、若嶋津は日本相撲協会の定年を迎えた。
その後は参与として協会に残っていたが、2023年7月21日付で正式に退職した。
現役引退後も長く相撲界に関わってきた若嶋津にとって、これが協会での活動に区切りをつける節目となった。
2026年3月15日、肺炎のため69歳で死去2026年3月15日、若嶋津は千葉県内の病院で肺炎のため死去した。享年69。
共同通信の報道では、元大関で元二所ノ関親方の日高六男さんとして訃報が伝えられた。
日本相撲協会も翌16日に死去を発表し、通夜は23日、葬儀は24日に千葉県市川市で営まれた。喪主は妻のみづえさんが務めた。
スポニチの報道では、高田さんが夫について感謝の気持ちを語ったことも伝えられている。
「親方には、ありがとうという気持ちです」
長年連れ添った妻の言葉には、夫婦として歩んできた時間の重みが表れている。
なお、2017年の転倒と2026年の死去は別々の出来事として捉える必要がある。死因として報じられたのは肺炎であり、頭部の事故が直接の死因だったと発表されたわけではない。
【混同に注意】レイ・セフォーや琴ヶ濱も南海の黒豹と呼ばれた?
「南海の黒豹」という言葉を調べると、若嶋津以外の人物も検索結果に登場する。
特に注意したいのが、格闘家のレイ・セフォーと、昭和の大相撲で活躍した琴ヶ濱だ。
レイ・セフォーも同じ異名を持つ格闘家ニュージーランド出身の格闘家。1971年2月15日生まれ。K-1で活躍し、豪快なパンチと攻撃的なファイトスタイルで知られた人物。
K-1の選手名鑑にも、レイ・セフォーのニックネームとして「南海の黒豹」が掲載されている。
つまり、この愛称は若嶋津だけに使われたものではない。
ただし、両者の競技人生はまったく異なる。
| 比較項目 | 若嶋津 | レイ・セフォー |
|---|---|---|
| 本名・名前 | 日高六男 | Ray Sefo |
| 出身 | 鹿児島県 | ニュージーランド |
| 生年月日 | 1957年1月12日 | 1971年2月15日 |
| 競技 | 大相撲 | キックボクシング |
| 最高実績 | 大関・幕内優勝2回 | K-1 WORLD GP準優勝など |
| 共通点 | 南海の黒豹という愛称 | 南海の黒豹という愛称 |
したがって、「南海の黒豹」という検索語だけでは、どちらの人物を指しているのか判別できない場合がある。大相撲や若嶋津という言葉が一緒に検索されているかが判断材料になる。
琴ヶ濱も南海の黒豹と呼ばれていた?昭和期に活躍した元大関。内掛けを得意としたことで知られ、相撲史に名を残した力士。
実は、相撲史を紹介する資料では、琴ヶ濱貞雄も「南海の黒豹」と呼ばれていたと紹介されている。
若嶋津は、こうした資料の中で「二代目南海の黒豹」と説明されることもある。
ただし、両者の取り口は異なる。
琴ヶ濱は内掛けを得意とした技術派であり、若嶋津は左四つからの上手投げや吊りなどを持ち味とした。
同じ愛称が使われていたからといって、同一人物だったり、直接の師弟関係があったりするわけではない。
この点は、検索結果で人物情報が混ざらないようにするためにも押さえておきたい。
【南海の黒豹に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:南海の黒豹とは誰のことですか?
A1:主に元大関・若嶋津を指す愛称です。本名は日高六男。鹿児島県種子島出身で、浅黒い肌と俊敏な取り口から「南海の黒豹」と呼ばれました。
Q2:若嶋津はいつ亡くなりましたか?
A2:2026年3月15日です。肺炎のため千葉県内の病院で69歳で亡くなりました。日本相撲協会は翌16日に発表しています。
Q3:若嶋津の死因は何ですか?
A3:報道によると肺炎です。2017年10月には船橋市内で転倒して頭部の緊急手術を受けていますが、2026年の死因として発表されたのは肺炎です。
Q4:若嶋津の幕内優勝は何回ですか?
A4:2回です。1984年春場所に14勝1敗で初優勝し、同年名古屋場所には15戦全勝で2度目の優勝を果たしました。
Q5:若嶋津の妻は誰ですか?
A5:元歌手の高田みづえさんです。1985年9月27日に結婚し、高田さんは芸能界を引退。その後、松ケ根部屋などで長年おかみさんを務めました。
Q6:若嶋津は横綱になりましたか?
A6:横綱には昇進していません。最高位は大関です。幕内優勝2回、全勝優勝1回という実績を残しました。
Q7:レイ・セフォーも南海の黒豹と呼ばれるのはなぜですか?
A7:K-1の選手名鑑でもレイ・セフォーのニックネームとして同じ愛称が使われています。若嶋津とは別人で、競技も経歴も異なります。
「南海の黒豹」として昭和の大相撲を彩った若嶋津。
1957年に鹿児島県種子島で生まれ、1975年に二子山部屋から初土俵を踏んだ。1983年に大関へ昇進し、1984年には幕内優勝2回、うち1回は全勝優勝という輝かしい記録を残した。
引退後は松ケ根部屋を創設し、2014年には二所ノ関の名跡を継承。日本相撲協会の理事や審判部長を務め、後進の育成にも尽力した。
私生活では高田みづえさんと結婚し、相撲部屋のおかみさんとして夫を支える妻とともに歩んだ人生も、多くの人々の記憶に残っている。
若嶋津の功績を評価するうえで、特に注目したいのは次の3点だ。
1. 競技者としての実績: 大関在位28場所、幕内優勝2回、全勝優勝1回という確かな記録。
2. 指導者としての功績: 松ケ根部屋を創設し、7人の関取を育てた後進育成への貢献。
3. 相撲界への貢献: 二所ノ関の名跡を継承し、協会理事・審判部長として相撲界の運営を支えたこと。
横綱には届かなかった。しかし、横綱にならなければ名力士として記憶されないわけではない。
若嶋津が残したのは、全勝優勝という記録だけではない。自分の強みを生かして頂点を目指した力士の姿、引退後に弟子を育てた師匠の姿、そして長年にわたって相撲界を支えた親方の姿である。
2026年3月15日、「南海の黒豹」は69年の生涯を閉じた。
その異名とともに、若嶋津六夫という力士が昭和から令和へとつないだ相撲の歴史は、これからも語り継がれていく。