以下、2026年11月時点の情報を反映し、人物の生涯、格闘技の実績、力石徹との関係、引退後の活動、訃報までを網羅した日本語の長編記事です。
山崎照朝(やまざき・てるとも)さんは、極真空手の第1回全日本選手権で初代王者に輝き、キックボクシングでも8戦連続KO勝利を記録した伝説的な格闘家だ。漫画『あしたのジョー』に登場する力石徹のモデルとなった人物としても知られ、現役引退後は格闘技ジャーナリスト、空手指導者、女子プロレスのコーチとして幅広く活動した。
2025年6月22日、胆管がんのため77歳で死去。亡くなる年の1月まで東京中日スポーツでコラムを執筆しており、晩年まで格闘技の現場と関わり続けた。2026年現在は、極真空手の歴史を築いた初代王者として、その功績が改めて振り返られている。
この記事では、山崎照朝のプロフィールや生い立ち、大山倍達との師弟関係、キックボクシングの戦績、力石徹のモデルになった経緯、クラッシュ・ギャルズへの指導、そして最晩年までの活動を時系列で解説する。
【1】山崎照朝のプロフィールとは?生い立ちと極真空手との出会い

山崎照朝は、単に強い空手家だったというだけではない。高校時代から並外れた熱意で稽古に打ち込み、大学時代には空手とキックボクシングの両方で頭角を現した人物だ。
山崎照朝の基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 山崎照朝(やまざき・てるとも) |
| 生年 | 1947年 |
| 出身地 | 山梨県 |
| 没年月日 | 2025年6月22日 |
| 享年 | 77歳 |
| 主な肩書 | 空手家、キックボクサー、格闘技評論家、ジャーナリスト |
| 所属・流派 | 極真会館、逆真会館 |
| 師 | 大山倍達 |
| 学歴 | 日本大学卒業 |
| 主な異名 | 極真の龍 |
| 代表的な実績 | 極真空手第1回全日本選手権優勝 |
| キックボクシング戦績 | 10戦8勝8KO2敗 |
| 主な指導実績 | クラッシュ・ギャルズなど |
| 代表的な活動 | 空手指導、格闘技評論、新聞コラム |
山崎照朝は1947年、山梨県に生まれた。
空手を始めたのは山梨県立都留高校の2年生だった。意外にも、最初から空手家を目指していたわけではない。
日刊スポーツの追悼記事によると、高校入学当初は野球部に所属していた。しかし、同学年だった堀内恒夫の剛速球を目の当たりにし、自分との実力差を感じて野球部を辞めたという。
その後、入学式で不良グループから因縁をつけられたことが、空手を始めるきっかけになった。
グループの中に空手を習っている人物がいたため、自分も身を守るために空手を学ぼうと考えたのだ。
大山倍達との出会いが人生を変えた山崎が入門先に選んだのは、東京・池袋にあった極真会館の総本部道場だった。
そこで出会ったのが、極真空手の創始者である大山倍達だった。
当時、山梨県に住んでいた山崎にとって、東京の道場に通うことは簡単ではない。極真会館の追悼発表では、実家から池袋の総本部まで片道約3時間をかけて通っていたと紹介されている。
しかも、空手を始めたことは両親に内緒だった。
日刊スポーツの取材では、東京へ通う交通費を確保するため、歌手を目指しているという理由を両親に説明し、都内の歌謡スタジオにも通っていたエピソードが紹介された。
そのスタジオには、後に歌手として大成する五木ひろしもいたという。
空手の稽古と学業を両立させながら、山崎は着実に実力を伸ばした。入門から約2年半で黒帯を取得したことも、その才能と努力を物語っている。
大山倍達に見いだされた山崎は、やがて極真会館を代表する選手へと成長していった。
【2】極真空手第1回全日本選手権の初代王者!山崎照朝の輝かしい戦績
山崎照朝の格闘家としての名声を決定づけたのが、1969年9月20日に開催された第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会だ。
この大会は、極真会館が直接打撃制ルールで開催した公式選手権の第1回大会にあたる。
山崎は22歳で出場し、見事に優勝。初代全日本王者という歴史的な称号を手にした。
得意技は切れ味鋭い上段回し蹴り山崎の代名詞となった技が、上段回し蹴りだった。
その切れ味は、当時の格闘技関係者や観客に強い印象を残した。
日刊スポーツが2020年の取材で紹介した稽古方法も興味深い。
山崎は自宅で約4キロの鉄げたを足につけ、天井から垂れた電球のひもを狙って蹴りの練習を繰り返していたという。
一見すると単純な反復練習だが、狙った場所に正確に足を運び、瞬間的に引き戻す動作を徹底していたことがうかがえる。
こうした積み重ねが、試合で見せた鋭い蹴りにつながった。
全日本選手権の年代別成績山崎は初代王者になった後も大会に出場し、上位に名を連ねた。
| 年 | 大会 | 成績 | 主な対戦・出来事 |
|---|---|---|---|
| 1969年 | 第1回全日本 | 優勝 | 初代王者に輝く |
| 1970年 | 第2回全日本 | 準優勝 | 長谷川一幸が優勝 |
| 1971年 | 第3回全日本 | 出場記録なし | 優勝は佐藤勝昭 |
| 1972年 | 第4回全日本 | 4位 | 選手として復帰 |
| 1973年 | 第5回全日本 | 準優勝 | 決勝で盧山初雄と対戦 |
※大会順位は新極真会の公式大会記録に基づく。
特に注目したいのが、1973年の第5回大会だ。
この大会の決勝で山崎と対戦したのは、後に極真空手界の重要人物となる盧山初雄だった。
盧山初雄との決勝戦は極真史に残る名勝負1973年11月4日、東京体育館で開催された第5回全日本選手権。
山崎は決勝まで勝ち進んだものの、盧山初雄に敗れ、準優勝となった。
この試合は、極真空手の歴史を振り返る際にも語られる一戦である。
武道専門誌『月刊秘伝』の関連人物紹介でも、山崎と盧山の決勝は極真史に残る名勝負として紹介されている。
山崎にとって、この大会が最後の全日本選手権出場となった。
初代王者として頂点を極め、最後の大会でも決勝に進出した。その競技人生は、短期間ながら非常に濃密なものだった。
【3】山崎照朝のキックボクシング戦績は?日本大学での活動と8連続KOの実力
山崎照朝の特徴は、空手だけにとどまらなかったことだ。
1969年、当時人気を集めていたキックボクシングにも参戦。極真空手の技術を異なる競技環境で証明した。
通算10戦8勝8KO2敗という記録山崎のキックボクシング通算戦績は、次のとおりだ。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 総試合数 | 10戦 |
| 勝利 | 8勝 |
| KO勝利 | 8回 |
| 敗戦 | 2敗 |
| 引き分け | 0 |
| 勝利のKO率 | 100% |
つまり、勝利した8試合はすべてKOだった。
特に注目されたのが、タイの強豪選手との対戦である。
カンナンパイ・ソントーンをKO山崎の活躍を語るうえで欠かせない相手が、タイのムエタイ戦士カンナンパイ・ソントーンだ。
カンナンパイは、当時の人気キックボクサー沢村忠の連勝記録を止めた選手としても知られていた。
山崎はそのカンナンパイをKOで破り、極真空手の実力をリング上で示した。
さらにサマン・ソー・アディソンとの対戦でもKO勝利を収めている。
森合正範氏の著書を紹介した文春オンラインの記事によると、山崎自身はサマン戦を現役時代で最も印象深い試合として挙げていた。
異なる格闘技の選手と戦いながら、自分の技術を証明していく姿勢が印象的だ。
日本大学キックボクシング部の創設にも関与山崎は日本大学に進学し、在学中にキックボクシング部の創設にも携わった。
加えて、関東の大学を中心とする全日本学生キックボクシング連盟の結成にも関わったと、武道専門誌『月刊秘伝』の人物紹介で伝えられている。
これは、単に自分が強くなることだけを目指していたのではないことを示す実績でもある。
大学生がキックボクシングを学び、競技として取り組める環境づくりにも貢献したのだ。
大山倍達の勧めでリングに上がった理由キックボクシングへの参戦には、大山倍達の勧めがあった。
山崎本人は後年の取材で、大山館長に言われると断れず「オス」と応じていたという趣旨のエピソードを語っている。
当時は極真空手の知名度を高めることも重要だった。
空手の技術をキックボクシングという別競技のリングで示すことは、極真の実力を広く知らしめる機会にもなった。
山崎は、その役割を担った選手の一人だった。
【4】力石徹のモデルになった経緯とは?梶原一騎との知られざる関係
山崎照朝の名前が格闘技ファン以外にも知られている大きな理由が、漫画『あしたのジョー』との関係だ。
作品に登場する力石徹は、主人公・矢吹丈の宿命のライバルとして描かれた人気キャラクターである。
そのモデルになった人物が山崎照朝だった。
梶原一騎から直接告げられたモデルの話力石徹のモデルについて、山崎は後年、森合正範氏のインタビューで興味深い証言を残している。
原作者の梶原一騎から、直接モデルであると告げられたというのだ。
当時のやり取りについて、山崎は次のように回想している。
「おまえがモデルだ。力石っていうんだ」
これは、梶原一騎から言われた言葉として、文春オンライン掲載のインタビューで紹介されたものだ。
つまり、単に外見や雰囲気が似ているという後世の推測ではなく、本人が原作者から直接伝えられたと証言している関係なのである。
なぜ長年、モデルだったことを公言しなかったのかここには山崎らしい人物像が表れている。
本人によると、一度雑誌などで力石のモデルだと話したところ、売名行為だと批判されたという。
梶原本人から直接聞いた話ではあったものの、それを裏付ける書面などが手元にあったわけではない。
しかも、梶原はすでに亡くなっていた。
山崎は、目立つことや有名になることを望んでいなかったため、無理に自分から主張することをやめたと説明している。
その後、ある記者から梶原の息子である高森城氏からも話を聞いていると伝えられ、本人も質問されれば経緯を説明するようになったという。
このエピソードは、2020年に出版された森合正範氏の著書『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』でも取り上げられている。
力石徹と山崎照朝の関係を整理| 関係者・作品 | 山崎照朝との関係 |
|---|---|
| 梶原一騎 | 力石徹のモデルだと本人に伝えた原作者 |
| 高森城 | 梶原一騎の息子。モデルに関する裏付けの証言に関係 |
| 力石徹 | 『あしたのジョー』のライバルキャラクター |
| 矢吹丈 | 力石徹が対峙する主人公 |
| 森合正範 | 山崎本人や関係者を取材したノンフィクション著者 |
山崎と梶原一騎の関係は、『あしたのジョー』だけではない。
大山倍達の半生を描いた劇画『空手バカ一代』にも、山崎は実名で登場している。
加えて、アニメ版のエンディングテーマ「空手道おとこ道」の歌唱も担当した。
空手家として漫画に登場し、別の人気漫画のキャラクターのモデルとなり、アニメの歌まで担当する。
格闘技と漫画・アニメの双方に深く関わった人物だったことが分かる。
【5】引退後の活動は?逆真会館の創設とクラッシュ・ギャルズへの指導
山崎照朝は1973年の第5回全日本選手権を最後に競技選手として引退した。
初代全日本王者という実績がありながら、現役を続けて名声や収入を追い求める道を選ばなかった。
本人が日刊スポーツの取材で語った引退の理由には、武道に対する独自の考え方が表れている。
「武道の精神は社会に生かすために学ぶもの。だから空手で飯を食っていく考えはなかった」
この考え方は、引退後の活動にも一貫していた。
1977年に空手道塾「風林火山」を設立山崎は1977年4月、埼玉県大宮で日本空手道塾「風林火山」を設立した。
目的は青少年の育成と空手の指導だった。
指導は営利を目的とするものではなく、ボランティアとして行われた。
その後、1996年4月に国際武道空手連盟「逆真会館」へ名称を変更。山崎は創始者・最高師範として後進の指導に携わった。
逆真という名前には、本人が語った「逆もまた真なり」という考え方が込められている。
人は必ず壁にぶつかる。そのときに大切なのは基本であり、迷ったときには初心に戻るという思想だ。
この考え方は、山崎が現役時代に培った武道観ともつながっている。
クラッシュ・ギャルズのコーチを務めた山崎の引退後の活動で、もう一つ特筆すべきなのが女子プロレスとの関係だ。
1983年、全日本女子プロレスから指導を依頼された。
対象となったのは、後に一世を風靡するクラッシュ・ギャルズの長与千種とライオネス飛鳥だった。
当時、全日本女子プロレスは新しいスター選手を育成する必要があった。
そこで、外部の本格的な指導者として山崎に白羽の矢が立った。
全日本女子プロレスのコミッショナーだった植田信治が、山崎の実績と人柄を評価して推薦したことが、森合正範氏の取材記事で紹介されている。
山崎は空手とは異なる競技であるプロレスの指導に戸惑いながらも、真剣に教えることができるならと依頼を引き受けた。
指導では正拳突きや回し蹴りなど、空手の技術を取り入れた。
クラッシュ・ギャルズがリング上で見せた力強い動きや空手を取り入れた表現にも、山崎の指導が関係していた。
この活動は、山崎が格闘技の枠を越えて後進を育てた代表的な事例である。
格闘技ジャーナリストとしても長年活躍現役引退後、山崎はサラリーマン生活を送りながら、格闘技記者として活動した。
デイリースポーツや中日スポーツ、東京中日スポーツなどで格闘技を取材し、ボクシングの専門誌でも執筆した。
ボクシング・ビートの前身にあたるワールドボクシング誌では「ハートDE勝負!」を連載していた。
さらに東京中日スポーツでは「山崎照朝 撃戦記」というコラムを担当。
試合を経験した選手ならではの視点で、技術、試合展開、選手の心理などを伝え続けた。
2025年1月まで同コラムを連載していたことは、日刊スポーツの訃報記事でも紹介されている。
選手としてリングを去った後も、格闘技を伝える側として現場に立ち続けたのだ。
【6】山崎照朝の死因は胆管がん?2025年の訃報と2026年現在
2025年6月23日、山崎照朝の訃報が家族によって公表された。
亡くなったのは前日の6月22日。胆管がんのため、77歳で生涯を閉じた。
2025年6月22日、胆管がんのため77歳で死去日刊スポーツやデイリースポーツなどの報道によると、山崎は東京都内の病院で亡くなった。
デイリースポーツは、胆管がんの合併症により、6月22日午後7時19分に亡くなったと報じている。
家族は公式SNSを通じて訃報を発表した。
息子による報告では、胆管がんとの闘病の末に亡くなったこと、そして病と闘う中でも最後まで弱音を吐かず、周囲への気遣いを忘れなかったことが伝えられた。
晩年まで続けた空手の稽古と指導山崎は晩年も空手との関係を絶やさなかった。
2020年4月、日刊スポーツの記者がさいたま市内の道場を訪れた際、72歳になった山崎は一人で約2時間の稽古を続けていた。
ミットへの突きや蹴り、50キロのバーベルを担いだスクワット、10キロのダンベルを使った腹筋など、年齢を感じさせない鍛錬を行っていたという。
また、逆真会館では週末を中心にボランティアで青少年の指導を続けていた。
2025年3月4日には都内で記者と食事をしていたことも、日刊スポーツの追悼記事で明らかにされている。
その際も普段と変わらない様子で、体調が思わしくないことを周囲に感じさせなかったという。
極真会館からも追悼のメッセージ2025年6月23日、極真会館は公式サイトで山崎への追悼文を発表した。
館長の松井章奎は、高校時代から長時間をかけて道場に通い、1969年の第1回全日本選手権で優勝した山崎の功績をたたえた。
また、山崎から直接指導を受けた経験を振り返り、隙のない構えや技の切れに感嘆したことを記している。
加えて、山崎は引退後も新聞記者として活動する一方、極真会館の組織運営や広報活動について助言していたという。
この証言は、山崎が現役時代だけでなく、その後も極真空手の発展に関わっていたことを示すものだ。
2026年現在、山崎照朝の活動はどうなっている?2026年11月現在、山崎照朝はすでに亡くなっており、本人による新たな指導活動やコラム執筆は行われていない。
一方、彼が残した功績は複数の分野にまたがっている。
- 極真空手第1回全日本選手権の初代王者という競技実績
- キックボクシングでの8勝8KOという記録
- 日本大学キックボクシング部の創設への貢献
- 『あしたのジョー』の力石徹のモデルという文化的なつながり
- クラッシュ・ギャルズの育成に関わった指導実績
- 逆真会館を通じた青少年への空手指導
- 格闘技ジャーナリストとしての長年の評論・取材活動
2020年には森合正範氏によるノンフィクション『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』が出版された。
この本は、本人へのインタビューや関係者への取材を通じて、山崎の半生を掘り下げた一冊だ。
2026年現在、山崎の人物像や功績を知るうえでも重要な資料となっている。
【7】山崎照朝の人物像・功績・評判を検証!何が特別だったのか
山崎照朝を評価する際、初代全日本王者という肩書だけに注目すると、その人物像の一部しか見えてこない。
彼の本質は、空手家、キックボクサー、指導者、ジャーナリストという複数の立場を長年にわたって貫いた点にある。
競技実績だけでなく、武道の普及にも貢献山崎の功績を評価するうえで重要なのは、競技と普及活動を切り離して考えないことだ。
日本大学キックボクシング部の創設、全日本学生キックボクシング連盟の結成への関与、逆真会館の設立など、後進が競技に取り組める環境づくりに携わった。
自らが頂点を目指すだけでなく、次の世代に技術や経験を伝えることにも力を注いでいた。
表舞台を好まなかった職人気質力石徹のモデルだったことを長く積極的に公言しなかったエピソードからは、目立つことよりも実績や実際の活動を重視する性格がうかがえる。
また、現役引退後に空手を職業として収入を得ることを選ばず、サラリーマンとして働きながらボランティア指導を続けた点も特徴的だ。
その生き方は、名声や商業的成功だけでは測れない武道家の価値を示している。
ジャーナリストとしての評価山崎は格闘技の技術を知るだけでなく、長年にわたって試合の現場を取材してきた。
選手としての経験を持つ記者が、競技の技術や選手の心理を分析することには大きな意味がある。
2025年1月までコラムを続けていたことからも、引退後の人生を通じて格闘技と向き合い続けていたことが分かる。
山崎照朝をめぐる主な誤解と事実| よくある認識 | 実際の事実 |
|---|---|
| 力石徹のモデルは単なる噂 | 本人は梶原一騎から直接伝えられたと証言 |
| 山崎は空手だけの選手だった | キックボクシングでも10戦8勝8KO2敗 |
| 1969年の優勝だけが実績 | 1970年と1973年にも準優勝 |
| 引退後は格闘技から離れた | 記者、評論家、指導者として長年活動 |
| 逆真会館は営利目的の道場だった | ボランティアによる青少年指導を長年継続 |
| 2026年も本人が指導している | 2025年6月22日に死去している |
山崎の評価は、勝敗やタイトルの数だけで決まるものではない。
極真空手の黎明期に競技の可能性を示し、異種格闘技のリングに立ち、後進を育て、最後まで格闘技を伝える仕事を続けた。その一貫性こそが、彼の大きな功績だ。
【プロの結論】山崎照朝の生涯から読み解く、極真空手の歴史と本当の功績
山崎照朝の生涯を振り返ると、格闘技の歴史における重要な転換点が見えてくる。
第一に、1969年の第1回全日本選手権での優勝だ。
直接打撃制の極真空手が競技として発展していく黎明期に、初代王者として歴史に名を刻んだことは大きい。
第二に、キックボクシングへの挑戦である。
空手の技術を異なる競技環境で示し、ムエタイの強豪にも勝利したことは、極真空手の知名度を広げる一助となった。
第三に、引退後の活動だ。
クラッシュ・ギャルズの指導、逆真会館での青少年育成、格闘技ジャーナリストとしての取材活動は、選手としてのキャリアが終わっても格闘技に貢献できることを示している。
そして第四に、力石徹のモデルという文化的な足跡である。
漫画『あしたのジョー』を通じて、山崎の存在は格闘技ファン以外にも知られることになった。
山崎照朝を知る際には、次の3つの視点が欠かせない。
1. 競技者としての実績: 1969年の極真空手初代全日本王者と、キックボクシング8勝8KO。
2. 指導者としての功績: 逆真会館やクラッシュ・ギャルズを通じた後進の育成。
3. 文化・言論への貢献: 力石徹のモデルという関係と、長年の格闘技評論活動。
山崎照朝は、単に強かった空手家ではない。自らの技術を証明し、その経験を次の世代へ伝え、格闘技の魅力を社会に発信し続けた人物だった。
2025年6月22日に77歳で亡くなった後も、その足跡は極真空手の歴史、キックボクシングの記録、漫画文化、そして指導者として育てた人々の中に残っている。
# 山崎照朝に関するよくある質問(FAQ)
Q1:山崎照朝は何歳で亡くなりましたか?
2025年6月22日、胆管がんのため77歳で亡くなりました。訃報は翌23日に家族によって公表されました。
Q2:山崎照朝は極真空手の初代全日本王者ですか?
はい。1969年9月20日に開催された第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会で優勝し、初代王者となりました。
Q3:山崎照朝のキックボクシング戦績は?
通算10戦8勝8KO2敗です。勝利した8試合はすべてKOという記録を残しています。
Q4:山崎照朝は本当に力石徹のモデルだったのですか?
本人が梶原一騎から直接モデルだと伝えられたと証言しています。森合正範氏のインタビューでも、その経緯が詳しく紹介されています。
Q5:山崎照朝と大山倍達の関係は?
山崎は高校時代に極真会館へ入門し、大山倍達の直弟子として指導を受けました。大山の勧めでキックボクシングにも参戦しています。
Q6:山崎照朝はクラッシュ・ギャルズを指導していたのですか?
はい。1983年に全日本女子プロレスの依頼を受け、長与千種とライオネス飛鳥の指導を担当しました。正拳突きや回し蹴りなどの空手技術を伝えています。
Q7:山崎照朝は2026年現在も空手を教えていますか?
いいえ。2025年6月22日に亡くなっています。生前は逆真会館を通じて長年、週末を中心にボランティアで青少年の指導を続けていました。
主な根拠資料・取材記録
- 極真会館公式の追悼発表
- 新極真会公式の全日本選手権記録
- 日刊スポーツの訃報・追悼取材
- Boxing Newsの追悼記事・著書紹介
- 文春オンライン掲載、森合正範氏による本人インタビュー
- 逆真会館の経歴紹介
- WEB秘伝の人物紹介