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【先に結論】織田信長の首はどこへ消えた?現在も所在は確定していない

藤森 綾 藤森 綾 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
目次

最初に答えを示すと、織田信長の首がどこに埋葬されたのか、あるいは本能寺の外へ持ち出されたのかは、確定していません。

本能寺の変で信長が死亡したことは、同時代の日記や織田家関係の記録から確認できます。一方、信長本人の首や遺骨が、その後どこへ運ばれたのかを確実に証明する史料は見つかっていません。

現在知られている主な説は、次の3つです。


遺体隠匿説: 森蘭丸が信長の遺骸を畳で覆い、明智軍に発見されないようにしたという伝承。
西山本門寺説: 原宗安(原志摩守)が信長の首を持ち出し、静岡県富士宮市の西山本門寺に埋葬したという伝承。
阿弥陀寺説: 清玉上人が本能寺から信長の遺骸を引き取り、火葬して遺灰を寺に持ち帰ったという寺伝。

この3つは、同じ出来事を異なる角度から説明したものではありません。森蘭丸説は遺体が見つからなかった理由、西山本門寺説は首の移送先、阿弥陀寺説は遺骸の供養先を説明する、それぞれ異なる伝承です。

特に注目したいのは、富士宮市が公式観光情報で西山本門寺の首塚伝承を紹介していることです。ただし、自治体が伝承を紹介していることと、信長の遺骨が考古学的に確認されたことは別問題です。

【本能寺の変を時系列で整理】信長の首が見つからなかった経緯

織田信長首

信長の首の謎を考えるには、まず本能寺の変当日の状況を整理する必要があります。

天正10年6月2日、明智光秀の軍勢が京都の本能寺を襲撃しました。当時の信長は、天下統一を目前に控えた有力大名でしたが、京都での滞在中は大規模な軍勢を伴っていませんでした。

襲撃を受けた信長は本能寺の奥へ退き、自害したと『信長公記』は記しています。しかし、その後の遺体の処理や首の所在については、同書から明確な結末を読み取れません。

事件の記録を時系列で整理すると、次のようになります。

時期 出来事 史料・検証ポイント 1582年6月1日 信長が本能寺に滞在 本因坊算砂らとの囲碁の対局が伝えられる。 6月2日未明 明智光秀が本能寺を襲撃 『信長公記』『言経卿記』『多聞院日記』などに事件の記録が残る。 6月2日 信長が本能寺で死亡 『信長公記』は自害を記す。『言経卿記』には討死とする記述がある。 事件直後 遺体・首の所在が不明確に 後世の『祖父物語』には、遺体を探しても見つからなかったという記述がある。 事件後 首塚・遺骸供養の伝承が形成される 西山本門寺や阿弥陀寺に、それぞれ異なる由緒が伝わる。

この時系列で重要なのは、信長の死亡そのものと、遺体の所在が判明していないことを分けて考える点です。

国立公文書館が公開する『家忠日記』にも、明智光秀の謀反によって信長が死亡したという情報が届いたことが記されています。これは事件の発生を裏付ける同時代の記録ですが、首の行方までは説明していません。

また、『多聞院日記』『言経卿記』『兼見卿記』など、事件を伝える日記類にも、それぞれ記述の詳しさや立場の違いがあります。歴史研究では、複数の記録を照合して事件の全体像を組み立てる必要があります。

【なぜ見つからなかった?】本能寺焼失と信長の遺体の行方

信長の首が見つからなかった理由として、まず考えられるのが本能寺の火災と、戦闘による現場の混乱です。

1.火災によって遺体の確認が難しくなった

本能寺は明智軍の攻撃を受け、建物が炎上しました。木造建築が激しく燃えれば、建物内部にあった物品や遺体は大きな損傷を受けます。

仮に信長の遺体が焼け跡に残っていたとしても、当時の状況では、それが信長本人のものだと確実に判断することは容易ではありません。

現代のようなDNA鑑定や科学的な個人識別の技術もありません。遺体の損傷が激しければ、身元の確認はさらに困難になります。

2.明智光秀にとって信長の首は政治的な意味を持っていた

戦国時代の合戦では、敵将の首級を確保することは、討ち取った事実を示す重要な手段でした。

信長ほどの大人物であれば、その首を確保して公に示すことには、軍事的な勝利だけでなく、政治的な正当性を示す意味もありました。

明智光秀にとっても、信長を討ったことを周囲に認めさせることは重要だったはずです。しかし、信長の首を確保できなかったという伝承は、事件直後の政治状況を考えるうえでも興味深い問題です。

ただし、光秀がどのような捜索を行ったのか、首の発見をどこまで重視したのかについては、伝承と後世の解釈を区別する必要があります。

3.信長自身が遺体を敵に渡さないよう指示した可能性

もう一つ注目されるのが、信長が自分の死後を想定して、遺体を敵に渡さないように命じたという見方です。

同じ日に二条新御所で明智軍と戦った嫡男・織田信忠については、『信長公記』に、死後の遺骸を隠すよう指示したという記述があります。

この信忠の行動を手がかりに、信長も同様の指示を出したのではないかと推測する説があります。ただし、信忠についての記述を、そのまま信長本人の行動の証拠にすることはできません。

現段階では、火災による損傷、遺体の隠匿、現場からの持ち出しなど、複数の可能性が残されています。

【森蘭丸の隠匿説】信長の遺体を畳で覆ったという伝承の真相

本能寺の変にまつわる逸話のなかでも、特に印象的なのが森蘭丸による遺体隠匿説です。

森蘭丸は信長に仕えた近習で、本能寺の変では信長の側近として最期を迎えた人物です。信長との主従関係や忠誠心を象徴する人物として、後世の軍記物や逸話集でもたびたび取り上げられています。

『祖父物語』に登場する畳5~6枚の逸話

この説の根拠として取り上げられるのが、江戸時代の伝承を収めた『祖父物語』です。

同書には、本能寺の焼け跡で明智軍が信長の遺体を探したものの発見できず、信長の遺体の上に森乱丸が畳を5~6枚かぶせたと伝わる、という趣旨の記述があります。

つまり、明智軍が遺体を見つけられなかったのは、森蘭丸が信長の亡骸を隠したためではないか、という説明です。

この話は、主君の遺体を敵に渡さないために最後まで忠義を尽くしたという、森蘭丸の人物像と結びついて広まりました。

この説は史実として確認できるのか

ここで重要なのは、『祖父物語』の記述は、本能寺の変を目撃した人物による同時代の公式記録ではないという点です。

同書の記述自体も、森乱丸が畳をかぶせたと「伝えられている」という形で書かれています。したがって、実際にその行動があったと断定することはできません。

大阪府立中央図書館の調査を収録した国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、森蘭丸にまつわる逸話が後世に形成され、別の小姓の逸話と結びついて広まった経緯が紹介されています。

森蘭丸の忠義を描く逸話は、後世に形成された人物像と、当時の出来事を区別して読む必要があります。

また、ここでいう隠匿説は、森蘭丸自身の遺体を隠したという話ではなく、信長の遺体を畳で覆ったという伝承です。首を切り離して持ち出したことを裏付ける記録でもありません。

【静岡県富士宮市の首塚】西山本門寺と原宗安の持ち出し説

織田信長の首の行方を考えるうえで、最も具体的な場所として知られているのが、静岡県富士宮市西山にある西山本門寺です。

同寺には、境内の本堂奥にある大柊の根元が信長の首を埋葬した場所だという伝承が残っています。

この伝承は単なる場所の言い伝えだけではありません。原宗安、本因坊算砂、日順上人という複数の人物が関わる物語として伝えられています。

西山本門寺はどのような寺院なのか

西山本門寺は、1344年(康永3年)に日代上人によって開山された日蓮宗系の寺院です。

富士宮市の公式観光情報によると、天正年間には武田勝頼の庇護を受け、武田家滅亡後には徳川家康から諸役免除の朱印を与えられました。

こうした歴史的背景から、同寺は戦国時代から近世にかけての東国と京都の宗教的なつながりを考えるうえでも興味深い場所です。

原宗安(原志摩守)はどのように首を運んだのか

西山本門寺の首塚伝承の中心人物が、原宗安(原志摩守)です。

富士宮市の公式説明で紹介されている『原家記』の伝承によると、原志摩守は本能寺の変の混乱のなかで、信長の首と自分の父・兄の首を持ち出したとされています。

その後、山道を通って駿河国へ向かい、西山本門寺の本堂裏手に3人の首を埋葬したというのです。

この伝承には、信長の首をどのように守り、なぜ西山本門寺を埋葬先に選んだのかという背景もあります。

本因坊算砂が持ち出しを指示したという説

もう一人の重要人物が、囲碁の名人として知られる本因坊算砂(日海上人)です。

信長は本能寺の変の前夜、本因坊算砂らと囲碁を打っていたと伝えられています。この対局を通じて、算砂は信長や本能寺周辺の人々と関わりを持っていたとされます。

西山本門寺説では、算砂が信長の死を知り、旧知の原宗安に首を寺まで運ぶよう指示したと説明されています。

算砂と西山本門寺を結びつけるのが、第18世住職の日順上人です。富士宮市の説明では、日順は原一族の出身で、算砂の弟子だったとされています。

つまり、原宗安が首を運び、算砂が埋葬先を指定し、日順が寺で供養したという関係が、この伝承の骨格になっています。

日順上人の過去帳に残る「惣見院信長」の記述

この説を支えるものとして紹介されるのが、日順上人の自筆とされる過去帳です。

富士宮市の公式ページでは、過去帳に「天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅」という記述があると紹介しています。

「惣見院」は信長の法名に関係する呼称であり、記述は天正10年6月に信長が明智によって討たれたことを示すものと解釈されています。

ただし、日順上人は1602年生まれで、本能寺の変が起きた1582年にはまだ生まれていません。

そのため、仮に過去帳の記述が当時のものであっても、日順自身が事件を直接目撃した証言ではありません。算砂などから事情を聞いた可能性は考えられますが、そこは伝承の範囲にとどまります。

『原家記』は信長の首を証明する決定的史料なのか

ここは西山本門寺説を検証するうえで、特に注意したいところです。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに掲載された、さいたま市立中央図書館の調査記録では、首塚関連の書籍に登場する『原家紀』『原家蔵本』について、日本古典総合目録で情報を確認できなかったとされています。

これは原家に関する伝承そのものが存在しないという意味ではありません。しかし、首の持ち出しを直接裏付けるとされる古文献について、書誌的な確認に課題が残ることを示しています。

また、ダイヤモンド・オンラインの記事でも、首塚の下を発掘調査して信長の首が確認されたわけではないという点が指摘されています。

したがって、現在の評価は次のようになります。

- 西山本門寺に信長の首塚と呼ばれる場所があることは確認できる。
- 寺院には信長の首を供養したという口伝が残っている。
- 原宗安が首を持ち出したという伝承には人物関係の説明がある。
- しかし、信長本人の首が埋葬されていることを示す考古学的証拠は確認されていない。

首塚の存在と、そこに信長の首が実際に眠っていることは、分けて考えなければなりません。

【もう一つの有力な伝承】京都・阿弥陀寺に信長の遺骸が運ばれた説

信長の首の行方を考える際、静岡の西山本門寺と並んで知っておきたいのが、京都市上京区にある阿弥陀寺です。

同寺には、清玉上人(玉誉清玉)が本能寺の変の直後に信長の遺骸を引き取り、供養したという寺伝が残されています。

清玉上人が遺骸を引き取ったという伝承

阿弥陀寺の伝承によると、清玉上人は信長の死を知って本能寺へ駆けつけました。

そこで、信長の遺骸を敵方に渡さないために火葬しようとしていた武士たちと出会い、遺体の供養を引き受けたとされています。

その後、清玉上人は遺灰を法衣に包んで阿弥陀寺に持ち帰り、信長の葬儀を行ったというのです。

加えて、信長の嫡男・織田信忠や森蘭丸ら、本能寺の変で亡くなった関係者も供養したと伝えられています。

西山本門寺説との違いは何か

両者の最大の違いは、埋葬されたとされるものです。

西山本門寺説は、信長の首を原宗安が運んだという話です。一方、阿弥陀寺説は、清玉上人が信長の遺骸を火葬し、遺灰を持ち帰ったという話です。

理論上、首と遺灰が別々に運ばれた可能性を考えることはできます。しかし、そのような一連の出来事を証明する連続した史料は確認されていません。

また、両寺の伝承は、それぞれ寺院の由緒や供養の歴史と結びついています。どちらか一方を選べば、もう一方が自動的に否定されるという単純な関係でもありません。

直木賞作家の安部龍太郎氏も、阿弥陀寺と西山本門寺の双方に信長の遺体・首をめぐる伝承が残っていることを紹介しています。

【プロの結論】織田信長の首の真相を見極める3つの判断基準

本能寺の変から444年が経過した2026年現在、信長の首の行方を一つに断定できるだけの証拠はありません。

ただし、史料や伝承を比較すると、それぞれの説がどの程度の根拠を持っているのかは整理できます。

判断基準1:同時代史料と後世の物語を区別する

最も重視したいのは、史料がいつ、誰によって、どのような目的で書かれたかです。

『信長公記』や『家忠日記』などは、本能寺の変の経過を考えるうえで重要な資料です。一方、『祖父物語』に記された畳の逸話や寺院の口伝は、後世に伝わった情報として扱う必要があります。

後世の記録だから価値がないということではありません。しかし、事件当時の記録と同じ証拠能力を持つわけではありません。

判断基準2:人物関係が自然でも、出来事の証明にはならない

西山本門寺説には、原宗安、日順、本因坊算砂という人物のつながりがあります。

それぞれが宗教的・人的な関係を持っていたという説明には、伝承を理解するうえでの意味があります。

しかし、人物同士の関係が自然に説明できることと、1582年6月2日に信長の首が実際に運ばれたことは別の問題です。

判断基準3:首塚の存在と遺骨の確認を混同しない

西山本門寺の首塚は、地域に根づいた歴史的な伝承を伝える場所です。大柊を墓標のように見立てた景観にも、長く供養を続けてきた寺院と地域の歴史が表れています。

一方で、信長の首が実際に埋葬されていると科学的に証明されたわけではありません。

この区別を理解すると、首塚伝承を単なる都市伝説として片付けることも、逆に確定した史実として受け入れることも避けられます。

歴史の謎を読み解くうえでは、伝承の価値を認めながら、証拠の強さを冷静に評価する姿勢が大切です。

【織田信長の首の行方】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:織田信長の首は現在どこにあるのですか?
A1:現在も確定していません。静岡県富士宮市の西山本門寺には首塚伝承があり、京都の阿弥陀寺には遺骸を供養したという寺伝がありますが、いずれも信長本人の遺骨が科学的に確認されたものではありません。

Q2:織田信長の首塚はどこにありますか?
A2:首塚伝承が残るのは、静岡県富士宮市西山の西山本門寺です。本堂奥にある大柊の根元が信長の首を埋葬した場所と伝えられています。

Q3:原宗安(原志摩守)とはどのような人物ですか?
A3:西山本門寺の首塚伝承に登場する人物です。『原家記』に関する伝承では、本能寺の変の混乱から信長と自身の父・兄の首を持ち出し、駿河の西山本門寺に埋葬したとされています。

Q4:森蘭丸は本当に信長の遺体を隠したのですか?
A4:『祖父物語』には、森乱丸が信長の遺体に畳を5~6枚かぶせたという伝承が記されています。ただし、同時代の確実な証言ではなく、実際に行われたと断定できる証拠はありません。

Q5:本能寺の変で信長の遺体が見つからなかった理由は何ですか?
A5:本能寺の火災による遺体の損傷、戦闘中の混乱、家臣による遺体の隠匿や持ち出しなどが考えられています。どの理由が実際に当てはまるのかは確定していません。

Q6:西山本門寺の首塚は発掘調査されていますか?
A6:信長本人の首や遺骨が発掘によって確認されたという公的な成果は確認できません。首塚は現在も伝承を伝える場所として知られています。

Q7:信長の遺体は阿弥陀寺にあるのですか?
A7:阿弥陀寺には、清玉上人が信長の遺骸を火葬し、遺灰を持ち帰って供養したという寺伝があります。ただし、遺灰が信長本人のものと科学的に確認されたわけではありません。

織田信長の首は、本能寺の変の後、どこへ消えたのでしょうか。

森蘭丸が畳で遺体を隠したという説、原宗安が首を静岡県富士宮市の西山本門寺へ運んだという説、清玉上人が阿弥陀寺に遺灰を持ち帰ったという説。いずれも、信長の最期をめぐる歴史の空白を埋めようとする伝承です。

なかでも西山本門寺の首塚は、原一族と本因坊算砂、日順上人のつながりを背景に、具体的な場所と人物が結びついた興味深い伝承です。しかし、『原家記』の書誌的な確認や、首塚の考古学的な検証には課題が残っています。

2026年現在、信長の首の所在は未解明です。 本能寺の変で信長が亡くなったことと、その首がどこに運ばれたのかという問題は、分けて考える必要があります。

歴史の面白さは、答えが分からないことだけにあるのではありません。残された史料を読み比べ、人物関係をたどり、伝承が生まれた背景を考えることで、事件の新たな側面が見えてきます。

信長の首塚伝承は、戦国時代の権力争いだけでなく、死者を弔い、その記憶を後世に伝えようとした人々の歴史でもあるのです。

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