アントニオ猪木は、晩年に難病と闘っていた。
新日本プロレスの創設者として日本のプロレス界を牽引し、政治家としても活動した猪木だったが、2019年ごろから心アミロイドーシスの闘病生活を送っていた。
2022年には自身の闘病について発信を続け、同年8月には日本テレビ系「24時間テレビ」に出演。これが最後のテレビ出演となった。
そして、2022年10月1日、79歳で死去。新日本プロレスも同日、創設者の訃報を公式発表した。
倍賞美津子は猪木の最期まで気にかけていた2026年4月9日付の女性自身は、猪木の晩年に倍賞がたびたび病床を訪れていたと報道した。
同誌によると、猪木の闘病中は一部の関係者しか病室に入れない状況だったが、倍賞は見舞いに訪れていたという。
見舞いに来た倍賞を見て、猪木が優しい笑みを浮かべていたという関係者の証言も紹介されている。
この報道で興味深いのは、1997年に倍賞が病気になった際、猪木が水羊羹を持って病院に駆けつけたエピソードとの対比だ。
かつて猪木が倍賞を見舞い、晩年には倍賞が猪木を見舞う。
離婚から長い年月が経過しても、二人の間には相手を気遣う関係が残っていた。
ただし、こうした交流を復縁や再婚の意思と結びつける根拠はない。夫婦ではなくなっても、人生の大切な時間を共有した相手として交流が続いていたという理解が自然だ。
【倍賞美津子の現在2026】渋谷区への引っ越し理由と女優としての活動

2026年現在、倍賞美津子は女優として活動を続けている。
1946年11月22日生まれで、2026年11月2日時点では79歳。同月22日に80歳を迎える。
姉は女優の倍賞千恵子。倍賞美津子自身も、映画やテレビドラマで長年にわたって活躍してきた。
代表作には、次のような作品がある。
- 『復讐するは我にあり』(1979年)
- 『楢山節考』(1983年)
- 『恋文』(1985年)
- 『うなぎ』(1997年)
- 『半沢直樹』(2013年)
- 『下町ロケット』(2015年)
- 『晴れたらいいね』(2025年)
特に映画『復讐するは我にあり』では、今村昌平監督のもとで強烈な存在感を発揮。女優として新境地を開いた作品として知られる。
2025年にはテレビ東京開局60周年特別企画ドラマ『晴れたらいいね』に出演。倍賞は、寝たきりの入院患者・雪野サエ役を演じた。
テレビ東京の公式番組情報でも出演が確認でき、2026年を迎えても女優としてのキャリアが続いていることが分かる。
2026年4月、渋谷区への引っ越しが明らかに2026年の倍賞美津子の近況で、特に注目されたのが東京都渋谷区への転居だ。
女性自身の2026年4月9日の報道によると、倍賞は以前、練馬区の実家で義理の姉と暮らしていたとされる。
しかし、2026年4月には渋谷区の住宅街で生活する姿が確認され、同誌の取材に対して本人も引っ越しを認めた。
転居の理由について、倍賞は次のように説明している。
「そうなんです。ちょっと懐かしくなって」
加えて、渋谷区は結婚して子供が生まれてから長く暮らしていた場所であり、知り合いも多く、今も好きな街だと語っている。
現在は渋谷区で一人暮らしをしながら、練馬区との間を行き来しているという。
なぜ猪木との思い出の街に戻ったのかこの転居が注目された理由は、渋谷区が猪木との新婚生活を送った思い出の場所だからだ。
女性自身によると、二人は結婚当初、渋谷区のマンションで生活していた。
新日本プロレスの仲間が訪れ、倍賞が手料理を振る舞う。猪木の事業が軌道に乗るまで、夫婦で苦労を重ねた時期でもある。
その後、二人は離婚し、それぞれの人生を歩んだ。
しかし、長い年月が過ぎた2026年、倍賞は再び思い出の街で暮らすことを選んだ。
女性自身は、猪木との思い出が転居の背景にあると伝えている。
ただし、本人が明確に語ったのは、懐かしさや街への愛着、知人の多さである。猪木への思いだけを転居の唯一の理由とするのは正確ではない。
かつて暮らした街に戻るという選択は、倍賞にとって自分の人生を振り返りながら、今の生活を大切にする決断でもあるのだろう。
【アントニオ猪木と倍賞美津子】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:アントニオ猪木と倍賞美津子の馴れ初めは?
A1:1966年ごろ、プロレスラーの豊登を介して知り合ったとFRIDAYデジタルが報じています。その後、猪木が倍賞の実家を訪ねるなどして関係を深め、1971年11月2日に結婚しました。
Q2:二人の結婚式はどこで行われた?
A2:東京都新宿区の京王プラザホテルです。1971年11月2日に開催され、費用は約1億円、列席者は約1500人と伝えられています。
Q3:アントニオ猪木と倍賞美津子の離婚理由は?
A3:猪木の事業経営の負担や女性問題が主な背景として報じられています。1986年には猪木の女性問題が写真週刊誌で報じられました。ただし、二人は離婚理由を詳しく公表していません。
Q4:二人の娘は誰?
A4:娘は猪木寛子さんです。2023年にはCREAのインタビューで父親と母親の家庭での様子や、離婚後も続いた両親の交流について語っています。
Q5:倍賞美津子は猪木の死後も交流していた?
A5:猪木の生前、離婚後も交流が続いていました。1997年には倍賞の入院先を猪木が訪れ、晩年には倍賞が猪木の病床を見舞っていたと報道されています。
Q6:倍賞美津子は2026年現在、何歳?
A6:1946年11月22日生まれで、2026年11月2日時点では79歳です。2026年11月22日に80歳を迎えます。2025年にはドラマ『晴れたらいいね』にも出演しています。
Q7:倍賞美津子が渋谷区に引っ越した理由は?
A7:2026年4月の女性自身の取材で、本人は懐かしさや知人の多さ、街への愛着を理由に挙げています。渋谷区は猪木と結婚生活を送った思い出の場所でもあります。
アントニオ猪木と倍賞美津子の関係は、1971年の華やかな結婚から1980年代後半の離婚まで、昭和の芸能界とプロレス界を象徴する夫婦の物語だった。
二人の歩みを振り返ると、次の5つの事実が浮かび上がる。
1. 1960年代に豊登を介して出会い、1971年11月2日に結婚した。
2. 倍賞は新日本プロレスの旗揚げを妻として支え、娘の寛子を育てた。
3. 1980年代には事業上の問題や女性問題が重なり、夫婦は別々の道を選んだ。
4. 離婚後も娘を通じた交流や病床への見舞いなど、互いを気遣う関係が続いた。
5. 2026年には倍賞が猪木との思い出が残る渋谷区に生活の拠点を移したことが報じられた。
二人の関係を単に「離婚した元夫婦」として捉えると、その実像は見えてこない。
猪木にとって倍賞は、新日本プロレスという大きな挑戦を始めた時期に隣で支えてくれた存在だった。倍賞にとっても猪木との結婚生活は、女優としての人生と同じように、かけがえのない経験だったのだろう。
夫婦という形は終わっても、共有した時間や相手への敬意まで失われたわけではなかった。
2026年、倍賞美津子が再び渋谷区で暮らしているという報道は、二人がともに過ごした年月が、今も彼女の人生の記憶に刻まれていることを感じさせる。
猪木が亡くなって4年余り。二人の物語は、結婚や離婚という結果だけでは語り尽くせない、長い人生のつながりとして記憶されている。