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徳川家康の妻は誰?築山殿・朝日姫と側室、16人の子どもの母を徹底解説

小野寺 翔 小野寺 翔 • 更新: • 公開: • 読了約 27 分
目次

徳川家康には何人の妻がいたのでしょうか。江戸幕府を開いた天下人には、正室の築山殿(築山御前)と朝日姫(旭姫)をはじめ、西郷局、於万の方、阿茶局など、多くの女性が関わっていました。一般的には、正室・継室と側室を合わせて21人前後の女性がいたと整理されますが、側室の人数や婚姻上の位置づけには研究者によって違いがあります。

家康の妻たちの人生をたどると、今川氏との同盟、豊臣秀吉との外交、徳川家の後継者問題、そして築山殿と長男・信康をめぐる悲劇が浮かび上がります。2026年現在、国立公文書館や岡崎市の歴史資料、歴史研究者の著作などから確認できる事実をもとに、妻の一覧、婚姻の経緯、子どもの母親、通説と異説を整理します。

【結論】徳川家康の妻は誰?正室と側室の違いから人数を整理

徳川家康の妻

徳川家康の妻として特に知られるのは、最初の正室・築山殿と、築山殿の死後に正室となった朝日姫です。

ただし、家康の女性関係をこの2人だけで説明することはできません。後に2代将軍となる徳川秀忠を産んだ西郷局や、結城秀康の母である於万の方(長勝院)、大坂冬の陣で外交交渉を担った阿茶局など、徳川家の政治や後継者問題に深く関わった女性がいました。

正室・継室・側室は何が違う?

家康の妻を理解するうえで、まず押さえたいのが正室と側室の違いです。

正室は、武家社会において家の正式な妻として位置づけられる女性です。家の格式や婚姻相手の家との関係を象徴する存在でもありました。

継室は、先妻の死別や離別などの後に迎えられる正式な妻を指します。家康の場合、築山殿の死後に迎えた朝日姫が、一般に後妻・継室として説明されています。

側室は、正室とは異なる立場で主君の家に仕え、子どもを産むこともあった女性です。ただし、戦国時代から江戸時代初期にかけては、婚姻の形式や女性の家内での位置づけが一様ではありません。後世の記録で側室と整理された女性のなかにも、正式な妻に近い立場だったと考えられる人がいます。

徳川家康の妻は何人?

人数については、資料の数え方によって違いがあります。

nippon.comの2023年の歴史解説では、正室・継室と側室を合わせて21人とする整理が紹介されています。同記事では側室を19人と数え、別の歴史紹介では20人の側室がいたとする説明も見られます。

そのため、家康の妻は「正室2人、側室は19〜20人程度」と理解するのが実用的です。ただし、すべての女性について婚姻上の立場が確定しているわけではありません。

単純に人数を競うよりも、どの女性が正室として記録され、誰が子どもを産み、誰が徳川家の政治や外交を支えたのかに注目すると、家康の家族関係が見えやすくなります。

【妻一覧】築山殿・朝日姫から西郷局、阿茶局まで主要な女性を紹介

家康の妻や側室には、出自も役割も異なる女性がいました。今川氏の一門につながる女性、豊臣家から嫁いだ女性、徳川家の後継者を産んだ女性、政治的な交渉を任された女性など、その立場はさまざまです。

1.築山殿(築山御前・瀬名)|家康最初の正室

築山殿は、徳川家康が松平元康と名乗っていた時代に迎えた最初の正室です。

父は今川氏に仕えた関口親永(関口義広)とされ、母は今川義元の妹と伝えられています。家康と築山殿の婚姻は弘治3年(1557年)が一般的ですが、国立公文書館の解説にもあるように、弘治2年(1556年)とする説もあります。

この結婚には、今川氏と松平氏の政治的な関係を強める意味がありました。家康は当時、今川氏の影響下にあり、婚姻によって今川一門に準じる立場を得たと国立公文書館は説明しています。

2人の間には、長男・松平信康と長女・亀姫が生まれました。しかし、築山殿は1579年に家康の命によって殺害されます。嫡男信康も同年に切腹しており、徳川家の歴史に残る大きな悲劇となりました。

2.朝日姫(旭姫・南明院)|豊臣秀吉の妹

朝日姫は、豊臣秀吉の異父妹として知られる女性です。築山殿の死後、家康の正室となりました。

婚姻が実現したのは天正14年(1586年)です。小牧・長久手の戦い後も家康を完全に服属させられなかった秀吉は、家康との和睦を進めるため、妹の朝日姫を嫁がせました。

国立公文書館の展示「秀吉への臣従」によると、同年5月に旭姫が家康のもとに輿入れし、さらに10月には秀吉の母・大政所も岡崎に送られています。婚姻と親族の派遣を組み合わせた、秀吉の外交政策だったのです。

朝日姫は天正16年(1588年)に上洛し、その後は京都にとどまりました。天正18年(1590年)に亡くなり、家康との間に子どもはいませんでした。岡崎市観光協会の歴史解説では、48歳で亡くなったとされています。

朝日姫の結婚は、恋愛を中心とした物語というより、豊臣政権と徳川家の政治関係を象徴する婚姻として見る必要があります。

3.西郷局(於愛の方・宝台院)|2代将軍秀忠の生母

西郷局は、家康の側室のなかでも特に重要な女性です。於愛の方とも呼ばれ、後に宝台院の号を贈られました。

もとは西郷義勝の後妻でしたが、義勝が戦死した後、浜松城で家康に仕えるようになりました。西郷清員の養女となったことから、西郷局と呼ばれています。

天正7年(1579年)には、後の2代将軍・徳川秀忠を出産しました。また、四男の松平忠吉の母としても知られています。

秀忠は家康の後継者となり、江戸幕府の2代将軍に就任します。西郷局は徳川将軍家の血統をつなぐうえで、非常に大きな役割を果たした女性です。

西郷局は天正17年(1589年)に亡くなりました。岡崎市観光協会の資料では享年28歳とされ、寛永5年(1628年)に従一位と宝台院の号を追贈されています。

4.於万の方(長勝院・小督の局)|結城秀康の母

於万の方は、長勝院や小督の局とも呼ばれ、家康の次男・結城秀康を産んだ女性です。

築山殿に侍女として仕えていたとされ、天正2年(1574年)に於義丸、後の結城秀康を出産しました。

秀康は後に豊臣秀吉の養子となり、その後、結城家を継ぎます。最終的には越前福井藩の祖となりました。

岡崎市観光協会の資料では、長勝院は元和5年(1619年)に越前北庄で亡くなり、72歳だったとされています。

なお、家康にはもう一人、於万の方と呼ばれる女性がいます。後述する養珠院とは別人です。同じ呼び名で混同されやすいため、子どもの名前と法号を合わせて覚える必要があります。

5.阿茶局(雲光院)|家康の信頼を得た外交担当者

阿茶局は、家康の側室として知られていますが、子どもを産むことだけが彼女の役割ではありませんでした。

国立公文書館によると、阿茶局は須和という名で、武田氏家臣の飯田氏の娘とされます。今川家臣の神尾忠重に嫁ぎましたが、夫の死後、天正5年(1577年)から家康に仕えるようになりました。

彼女の活躍で特に注目されるのが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣です。徳川方の和睦の使者として本多正純とともに交渉に参加し、豊臣方の常高院と話し合いました。

家康の死後も幕府との関係を保ち、後に従一位に叙されています。家康にとって、阿茶局は信頼できる相談相手であり、政治的な役割を担える女性だったことが分かります。

6.於万の方(養珠院)|紀州徳川家・水戸徳川家の母

於万の方(養珠院)は、長勝院とは別の女性です。上総の正木氏の娘で、北条家臣の蔭山氏広の養女となった後、小田原征伐を経て家康に仕えるようになりました。

慶長7年(1602年)に十男・徳川頼宣、慶長8年(1603年)に十一男・徳川頼房を産みました。

頼宣は紀州徳川家の祖、頼房は水戸徳川家の祖となります。後に徳川御三家として知られる家系のうち、二家の血筋をつないだ女性です。

家康の死後は養珠院と呼ばれ、承応3年(1654年)に亡くなりました。

7.その他の側室|下山殿・茶阿局・於亀の方・於梶の方

家康には、ほかにも徳川家の家系を支えた側室がいます。

  • 下山殿(於都摩の方):家康の五男・武田信吉と三女・振姫の母として知られる。
  • 茶阿局(於茶阿の方):六男・松平忠輝と七男・松千代を産んだ。
  • 於亀の方(相応院):八男・仙千代と九男・徳川義直の母。
  • 於梶の方(英勝院):五女・市姫を産み、後に水戸徳川家の祖となる頼房の養育にも関わった。
  • 阿牟須の方:名護屋の陣中に随行したと伝わり、難産で母子ともに亡くなったとされる。
  • 西郡局:二女・督姫の母で、家康と敵対した鵜殿氏との関係を持つ女性だった。

こうした女性たちは、単に家康の私生活を彩った存在ではありません。婚姻による家同士の関係、子どもの養育、家臣団との結びつきなどを通じ、徳川家の基盤を支えていました。

【関係性一覧表】徳川家康の妻と子ども、婚姻の背景を比較

主要な女性たちの立場と、家康との関係、子どもを整理すると次のようになります。家康の家族関係を理解する際には、妻としての立場と、母親としての役割を分けて見ることが大切です。

女性の名前 立場・婚姻の背景 子ども・主な関係 歴史上の役割
築山殿 最初の正室。今川氏との政治的婚姻 松平信康・亀姫 信康事件の中心人物
朝日姫 2人目の正室。秀吉との和睦を目的とした政略結婚 家康との子どもなし 豊臣・徳川間の外交関係
西郡局 側室。鵜殿氏の娘 督姫 北条氏・池田氏との婚姻関係
於万の方(長勝院) 側室。築山殿に仕えたとされる 結城秀康 越前松平家の母
西郷局 側室。於愛の方とも呼ばれる 徳川秀忠・松平忠吉 2代将軍の生母
下山殿 側室。穴山氏の養女 武田信吉・振姫 武田氏との関係にもつながる
茶阿局 側室 松平忠輝・松千代 家康の六男・七男の母
於亀の方 側室。相応院 仙千代・徳川義直 尾張徳川家の母
於万の方(養珠院) 側室。蔭山殿とも呼ばれる 徳川頼宣・徳川頼房 紀州・水戸徳川家の母
於梶の方 側室。英勝院 市姫 頼房の養育にも関与
阿茶局 側室。家康の信頼を得た女性 家康との子どもなし 大坂冬の陣の和議交渉

この表から分かるように、家康の妻たちはそれぞれ異なる役割を担っていました。築山殿や朝日姫は外交・家格に関係し、西郷局や長勝院、養珠院は後継者や有力な大名家の血統に関係しています。

一方、阿茶局のように子どもを産まなくても重要な役割を担った女性もいました。家康の女性関係を、単純な子どもの人数だけで説明することはできません。

【子ども一覧】徳川家康の11男5女と母親の関係

徳川家康の子どもは、一般に11男5女の合計16人とされています。系図や史料をもとにしたnippon.comの解説でも、この16人という人数が紹介されています。

正室の築山殿との間には1男1女が生まれました。一方、朝日姫との間には子どもがいません。残る14人は側室との間に生まれた子どもです。

家康の子どもと母親の一覧
  • 長男・松平信康:築山殿。岡崎城主となったが、1579年に切腹。
  • 長女・亀姫:築山殿。奥平信昌に嫁いだ。
  • 次女・督姫:西郡局。北条氏直、後に池田輝政に嫁いだ。
  • 次男・結城秀康:於万の方(長勝院)。越前福井藩の祖。
  • 三男・徳川秀忠:西郷局。江戸幕府の2代将軍。
  • 四男・松平忠吉:西郷局。尾張清洲藩主。
  • 三女・振姫:下山殿とする系図があるが、母親の比定には異説もある。
  • 五男・武田信吉:下山殿。武田氏の名跡を継いだ。
  • 六男・松平忠輝:茶阿局。越後高田藩主。
  • 七男・松千代:茶阿局。幼くして亡くなった。
  • 八男・仙千代:於亀の方。幼くして亡くなった。
  • 四女・松姫:母親については諸説がある。早世した。
  • 九男・徳川義直:於亀の方。尾張徳川家の祖。
  • 十男・徳川頼宣:於万の方(養珠院)。紀州徳川家の祖。
  • 十一男・徳川頼房:於万の方(養珠院)。水戸徳川家の祖。
  • 五女・市姫:於梶の方(英勝院)。幼くして亡くなった。

なお、子どもの出生順や母親の比定については、史料や系図によって違いがあります。特に振姫や松姫については、単一の説だけで断定しないことが大切です。

徳川家の後継者は側室の子どもから生まれた

家康の子どものうち、歴史的に特に重要なのが秀忠、義直、頼宣、頼房の4人です。

秀忠は江戸幕府の2代将軍となり、将軍家の継承を担いました。義直は尾張徳川家、頼宣は紀州徳川家、頼房は水戸徳川家の祖となります。

つまり、後の徳川御三家のうち三家の基礎を築いたのは、家康と側室の間に生まれた子どもたちでした。

正室の子どもが必ずしも将軍家を継ぐわけではなく、政治情勢や家臣団の意向、後継者としての適性などが複雑に絡み合っていたのです。

【築山殿の生涯と最期】徳川信康事件で何が起きたのか

徳川家康の妻を語るうえで、最も大きな謎を残しているのが築山殿と信康の事件です。

1579年、家康は正室の築山殿と嫡男の信康を相次いで失いました。母子が同じ時期に処分された背景には、徳川家と織田家の同盟関係、武田氏との対立、徳川家中の政治的な問題などがあったと考えられています。

築山殿と家康の関係はなぜ変化したのか

結婚当初、築山殿と家康は今川氏を介した政治的な結びつきを持っていました。しかし、1560年の桶狭間の戦いを経て、家康は今川氏から独立する方向へ進みます。

今川氏の一門につながる築山殿にとって、夫の政治的な立場が変わることは、自身の実家との関係にも影響する大きな出来事でした。

加えて、家康は浜松を拠点とする一方、信康は岡崎を拠点としました。家族が別々の場所で生活するようになり、徳川家の内部でも立場や政治的な考え方の違いが生じたと考えられています。

ただし、夫婦仲が悪かった、築山殿が嫉妬深かったといった人物像には、後世の逸話や創作的な解釈も混在しています。史料で確認できる出来事と、人物評価は区別する必要があります。

信康事件の通説|徳姫の訴えと織田信長の命令説

一般に知られているのは、信康の妻で織田信長の娘だった徳姫が、夫と姑である築山殿の問題を父に訴えたという説です。

この説では、徳姫が信康や築山殿の不行状を記した十二カ条の訴状を信長に届け、信長が家康に処分を求めたと説明されます。家康は織田家との同盟を維持するため、信康を処断せざるを得なかったという筋書きです。

この話は、江戸時代に大久保忠教が著した『三河物語』などを通じて広まりました。

しかし、静岡大学名誉教授の本多隆成氏は、従来の説明を再検討し、家康自身の判断や徳川家中の政治状況を重視しています。また、平山優氏も武田氏との関係や当時の政治情勢を踏まえて事件を分析しています。

築山殿と信康は同じ日に亡くなったのか

実際には、2人の最期は同日ではありません。

  • 天正7年8月29日:築山殿が殺害されたとされる。
  • 天正7年9月15日:信康が二俣城で切腹したとされる。

築山殿は遠江国富塚付近で殺害され、浜松の西来院に葬られました。信康は二俣城で切腹しており、母子は異なる場所、異なる日に命を落としています。

信康事件の真相は解明されているのか

現在も事件の原因については議論が続いています。

大きく分けると、次のような見方があります。

  • 織田信長の命令を重視する説:徳姫の訴えを受けた信長の意向が、家康の処分を促したと考える。
  • 家康自身の判断を重視する説:徳川家中の問題や、信康との政治的な対立を背景に、家康が主体的に処分を決めたと考える。
  • 武田氏との外交問題を重視する説:武田氏との関係をめぐり、家康側と築山殿・信康側の立場が異なっていた可能性を考える。

国立公文書館が紹介する『松平記』は、江戸時代前期に成立したとされる作者不詳の記録です。事件当時の実況記録ではなく、後世の記述も含むため、史料の成立時期や内容を吟味する必要があります。

また、家康が1579年8月に信康を岡崎から追放したことを伝える書状の写しも、事件の経緯を考える重要な材料です。家康自身が処置の主体だったことを示す一方、築山殿が殺害された理由のすべてを説明するものではありません。

したがって、「信長がすべてを命令した」という説明だけで事件を理解するのは不十分です。家康自身の政治判断、徳川家中の対立、武田氏との関係を総合的に考える必要があります。

【婚姻の経緯】徳川家康はなぜ多くの女性と結婚したのか

家康の婚姻には、個人的な関係だけでなく、戦国大名としての政治的な目的が深く関係していました。

戦国時代の婚姻は、同盟関係を強化したり、敵対勢力との関係を改善したりする外交手段でもありました。家康の結婚歴を年代順に見ると、その時々の政治状況が反映されていることが分かります。

1557年ごろ|築山殿との婚姻で今川氏との関係を強化

最初の婚姻は、家康が松平元康と名乗っていた時代です。今川義元の一門につながる関口氏の娘を正室として迎えることで、今川氏との関係を深めました。

国立公文書館の解説によれば、この婚姻によって元信は今川一門に準じる扱いを受けることになりました。結婚は、松平氏の政治的な立場を高める意味を持っていたのです。

1570年代|側室との間に後継者が誕生

1570年代には、於万の方(長勝院)との間に結城秀康が生まれ、西郷局との間には徳川秀忠が誕生しました。

正室の築山殿との関係が変化していく一方で、家康は複数の側室との間に子どもをもうけ、徳川家の後継者候補を確保していきました。

1586年|朝日姫との政略結婚で豊臣秀吉に接近

家康と朝日姫の婚姻は、秀吉による天下統一政策と深く関係しています。

小牧・長久手の戦いの後も家康は独立した勢力を維持していました。秀吉は武力だけでなく、婚姻と親族関係を利用して家康を臣従させようとします。

その具体策が、妹の朝日姫を家康に嫁がせることでした。

さらに秀吉は母の大政所を岡崎に派遣します。こうした一連の動きを経て、家康は大坂城で秀吉と対面し、臣従を決意することになります。

1590年代〜1600年代|関東移封後も続いた婚姻と後継者の確保

1590年、家康は豊臣秀吉の命令で関東へ移ります。その後も側室との間に子どもが生まれました。

特に、養珠院との間に生まれた頼宣と頼房は、後の紀州・水戸徳川家につながります。家康は晩年まで子どもをもうけ、徳川一門の基盤を広げていきました。

ただし、すべての側室を政略結婚と考えることはできません。女性の出自や家康との関係はさまざまで、家臣の娘や神官の家の出身者、他家の養女などもいました。

多くの女性を迎えた背景には、後継者を確保するという戦国大名としての事情に加え、家臣団や有力家との関係を維持する必要性もあったと考えられます。

【誤解を検証】於大の方・長勝院・養珠院を混同してはいけない理由

徳川家康の妻を調べると、名前や呼び名が似ている女性が何人も登場します。特に混同されやすいのが、於大の方、長勝院、養珠院です。

於大の方は家康の妻ではなく実母

於大の方は、徳川家康を産んだ母親です。家康の父である松平広忠の妻であり、家康自身の妻ではありません。

1528年に水野忠政の娘として生まれ、1541年に松平広忠に嫁ぎました。翌1542年ではなく、家康が生まれたのは天文11年(1542年)ではなく、天文11年(1542年)とする旧来の説明と天文11年(1542年)の表記に見える混同にも注意が必要です。一般に徳川家康の生年は天文11年(1542年)とされる系譜と、天文11年(1542年)ではなく天文11年(1542年)という表記が用いられています。

家康が3歳のころ、於大の方は松平家と離縁になり、その後、久松俊勝に再嫁しました。晩年には家康の母として遇され、慶長7年(1602年)に伏見城で亡くなっています。

刈谷市の公式解説でも、於大の方は家康の生母として紹介され、松平広忠との離縁や久松俊勝への再婚が説明されています。

つまり、於大の方は「家康の妻」ではなく「家康の母」です。家康が幼いころに両親が離縁したため、母子が長く離れて暮らしたという事情もあります。

長勝院と養珠院は別人

もう一つの大きな混同が、2人の於万の方です。

  • 於万の方(長勝院・小督の局):家康の次男・結城秀康を産んだ女性。
  • 於万の方(養珠院・蔭山殿):家康の十男・頼宣と十一男・頼房を産んだ女性。

長勝院は1574年に秀康を産み、1619年に亡くなりました。一方の養珠院は1602年と1603年に頼宣・頼房を産み、1654年まで生きました。

同じ「於万の方」という呼び名だけで人物を判断すると、子どもの母親を取り違えてしまいます。長勝院と養珠院という法号を確認することが、正確な家系理解につながります。

阿茶局は子どもを産まなかったのに重要人物だった

阿茶局についても、家康の子どもを産んだ女性と混同されることがあります。

しかし、家康との間に子どもがいたことを示す一般的な系図上の記録はありません。彼女の歴史的な重要性は、出産ではなく、家康からの信頼と外交・政治面での活躍にあります。

大坂冬の陣で和睦交渉を担ったことは、国立公文書館の資料にも記録されています。家康の女性たちの役割が、母親としての立場だけではなかったことを示す代表的な例です。

【徳川家康の妻】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:徳川家康の正室は何人いましたか?
A1:一般的には2人です。最初の正室が築山殿、築山殿の死後に迎えた正室が朝日姫です。ただし、側室の婚姻上の位置づけについては研究上の異説もあります。

Q2:徳川家康の妻や側室は合計何人ですか?
A2:正室・継室と側室を合わせて21人前後とする整理が知られています。側室を19人とする資料もあれば、20人とする紹介もあり、数え方によって異なります。

Q3:徳川家康の子どもは何人ですか?
A3:一般には11男5女の合計16人とされています。早世した子どもも含む人数です。

Q4:徳川家康の2代将軍・秀忠の母親は誰ですか?
A4:西郷局(於愛の方)です。天正7年(1579年)に秀忠を産みました。西郷局は徳川将軍家の血統をつないだ重要な女性です。

Q5:築山殿はなぜ殺されたのですか?
A5:1579年の信康事件に関連して、家康の命によって殺害されたとされています。徳姫の訴えや織田信長の関与、武田氏との外交問題、徳川家中の対立などが原因として議論されています。事件の全容は確定していません。

Q6:朝日姫はなぜ徳川家康に嫁いだのですか?
A6:豊臣秀吉が家康を臣従させるため、和睦の手段として妹の朝日姫を嫁がせたためです。天正14年(1586年)の婚姻は、戦国時代の政略結婚を代表する事例です。

Q7:於大の方は徳川家康の妻ですか?
A7:いいえ。於大の方は家康の実母です。松平広忠の妻として家康を産み、その後、久松俊勝に再嫁しました。

Q8:阿茶局は徳川家康との間に子どもがいましたか?
A8:一般的な家系図では、家康との間に子どもはいないとされています。しかし、家康の信頼を得て、大坂冬の陣の和睦交渉を担うなど、政治面で重要な役割を果たしました。

徳川家康の妻は、正室の築山殿と朝日姫だけではありません。西郷局、長勝院、養珠院、阿茶局をはじめ、多くの女性が家康の人生に関わりました。

築山殿は今川氏との政治的な婚姻を背景に家康の最初の正室となり、朝日姫は豊臣秀吉との和睦を目的として迎えられました。一方、西郷局は2代将軍・秀忠を産み、長勝院は結城秀康、養珠院は紀州・水戸徳川家の祖となる頼宣と頼房を産みました。

阿茶局のように、子どもを産むこと以外の役割で家康を支えた女性もいます。

家康の子どもは一般に11男5女の16人とされ、その母親たちの出自や役割もさまざまでした。徳川幕府の成立と、その後の将軍家・御三家の繁栄には、こうした女性たちの存在が欠かせません。

一方、築山殿と信康の事件は、家康の政治判断と家族の関係が交差した悲劇として、現在も歴史研究の対象となっています。織田信長の命令だけで説明できる単純な事件ではなく、徳川家中の対立や武田氏との外交問題を含めて考える必要があります。

徳川家康の妻を理解する際に大切なのは、正室・側室という肩書だけで女性たちを分類しないことです。誰と婚姻し、誰を産み、どの家を支え、どのような政治的役割を果たしたのか。その関係をたどることで、天下人・徳川家康の知られざる家族史と、江戸幕府が築かれた背景が見えてきます。

主な参考資料

  • 国立公文書館「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」元服と婚姻
  • 国立公文書館「秀吉への臣従」
  • 国立公文書館「家康死去後も幕府を支えた阿茶局」
  • 岡崎市観光協会「家康公と岡崎城の歴史・正室と側室」
  • nippon.com「徳川家康の女性観:後家好みだったのか?賢女好みだったのか?」(2023年3月28日)
  • 黒田基樹『家康の正妻築山殿―悲劇の生涯をたどる』(平凡社新書、2022年)
  • 本多隆成『徳川家康の決断―桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中央公論新社)
  • 東京大学史料編纂所『大日本史料』第十一編之二十九
  • 刈谷市公式サイト「徳川家康の生母・於大」

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小野寺 翔
トレンドリサーチャー 小野寺 翔
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アニメ・漫画の制作発表を担当。制作会社・出版社の公式告知と原作者コメントを確認してから記事化します。

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