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【幕内254勝10敗】勝率96.2%はなぜ史上屈指の大記録なのか

小野寺 翔 小野寺 翔 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
目次

雷電為右衛門を語るうえで、最も強烈なインパクトを残すのが幕内成績だ。

日本相撲協会が2026年1月に公開した公式クイズでも、雷電は江戸時代の大相撲で無類の強さを誇った力士として紹介されている。

254勝10敗、勝率96.2%の内訳

日本相撲協会が紹介する通算成績は次のとおりだ。




勝ち星

254勝

雷電為右衛門



負け星

10敗




勝率

96.2%




本場所在籍

35場所



その他の取組結果

引き分け

2


預かり

14


無勝負

5

つまり、254勝10敗という数字だけでなく、勝敗が決まらなかった取組も含めて、285番の取組が記録されている。

ここで注意したいのが、江戸時代の「預かり」という制度だ。

現在の大相撲では、勝負が決まらない場合に取り直しなどで決着をつけることがある。しかし、当時は相撲会所が勝敗を預かる扱いが存在した。

そのため、現代の力士の勝率と単純に同じ条件で比較することはできない。

96.2%という数字は、254勝を254勝と10敗の合計264番で割った数値である。引き分け・預かり・無勝負は勝敗の分母に含めない計算だ。

44連勝を含む驚異的な連勝記録

雷電には、勝率以外にも驚くべき記録が残っている。

代表的なのが、44連勝だ。

ほかにも43連勝、38連勝という長期連勝を記録している。山陰中央新報の人物解説でも、雷電が残した連勝記録として紹介されている。

加えて、現代のような年間優勝制度が整っていなかった時代ながら、優勝相当の成績を25回残し、そのうち7回は全勝だったという集計もある。

一場所ごとの日数や対戦制度が現代と異なるため、現代の優勝回数とそのまま比較するのは適切ではない。それでも、これほど長期間にわたり安定して勝ち続けたこと自体が、雷電の異次元の強さを示している。

歴代横綱や現代の大横綱と比べても強かった?

勝率という観点から見ると、雷電の記録は歴代の名力士と比較しても際立っている。

力士 勝率
雷電為右衛門 96.2%
梅ヶ谷藤太郎 95.1%
谷風梶之助 94.9%
白鵬 82.8%
大鵬 82.7%

これらは山陰中央新報の比較記事などで紹介された数値で、日本相撲協会も雷電の96.2%が梅ヶ谷藤太郎の95.1%を上回ることを紹介している。

ただし、江戸時代と現代では本場所の回数、取組数、休場の扱い、勝負の判定方法が異なる。したがって、勝率だけで全時代の力士の実力を完全に順位付けすることはできない。

それでも、雷電の記録が歴代の横綱や現代の大横綱を引き合いに出されるほど突出していることは間違いない。

横綱という称号を持たなかったにもかかわらず、横綱経験者を含む歴代の強豪と比較され続ける。 これこそが、雷電の特異な評価につながっている。

【最大の謎】雷電為右衛門はなぜ横綱になれなかったのか

雷電について最も多く検索される疑問が、なぜこれほど強かったのに横綱になれなかったのかという問題だ。

この疑問を解く鍵は、江戸時代の横綱制度にある。

江戸時代の横綱は現在の最高位ではなかった

現代の大相撲では、横綱は番付上の最高位であり、大関のさらに上に位置する。

しかし、雷電が活躍した18世紀末から19世紀初頭は、事情が違った。

当時の横綱は、現在のような番付上の階級ではなく、主に大関力士に与えられる横綱免許と土俵入りの資格に関係する称号だった。

横綱の象徴である注連縄(しめなわ)を腰に締めて土俵入りを披露することには、特別な意味があった。

寛政元年(1789年)11月、谷風梶之助と小野川喜三郎が横綱免許を受けたことで、この形式が広く知られるようになった。

ところが、小野川が寛政9年(1797年)に引退してから、次の横綱免許を受けた阿武松緑之助が登場する文政11年(1828年)まで、約31年間も横綱が誕生しなかった。

この事実は日本相撲協会の公式クイズでも紹介されている。

つまり、雷電が大関だった時代には、横綱という称号が現在のように継続的に授与される仕組みになっていなかったのだ。

横綱になれなかった理由として考えられる3つの説

雷電が横綱免許を受けなかった理由については、複数の説が存在する。

説 内容 評価
制度上の事情 横綱免許は恒常的な昇進制度ではなかった 歴史的背景として確認できる
大名家・相撲関係者の政治的事情 松江藩と相撲を取り仕切る関係者との力関係が影響した可能性 仮説の域を出ない
本人が称号を求めなかった 大関という地位で十分と考えていた可能性 本人の意思を示す決定的な記録はない

特に興味深いのが、松江藩と相撲界の政治的な関係をめぐる説だ。

当時、雷電を抱えていたのは松江松平藩。一方、相撲界では吉田司家などの家が横綱免許に関わる権威を持っていた。

ダイヤモンド・オンラインに掲載された内館牧子氏の考察では、こうした大名家同士の関係や、雷電自身が横綱の称号を積極的に求めなかった可能性が論じられている。

ただし、これは歴史的な背景を踏まえた推論であり、雷電本人が横綱を辞退したと確定できる文書が発見されたわけではない。

「相手を殺したから横綱になれなかった」は本当?

ネットや講談で語られることがあるのが、雷電があまりにも強く、土俵上で相手を殺してしまったため横綱になれなかったという話だ。

これは有名な逸話だが、歴史的な事実として扱うことはできない。

平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』によると、この話は明治以後の講談『寛政力士伝』などで語られるようになった俗説とされる。

現役時代の取組記録や横綱免許に関する確実な資料から、相手を死亡させたことが横綱免許を妨げたと証明することはできない。

また、雷電が危険な技を使ったため、横綱として認められなかったという説明も、裏付けのある公式な昇進理由ではない。

歴史的に確かなのは、雷電の最高位が大関であり、横綱免許を受けなかったこと。そして当時は横綱免許そのものが現在のように定期的に与えられる制度ではなかったという点だ。

1801年の「秘密の横綱免許」説にも注目

もう一つ興味深いのが、享和元年(1801年)の記録だ。

雷電の『諸国相撲控帳』には、出雲大社で千家家において土俵入りを披露したことをうかがわせる記述がある。

これについて、相撲研究家の小島貞二氏は、出雲の国造が用意した注連縄を着けて土俵入りを行ったことを、非公開の横綱免許に関係する出来事だったのではないかと推論した。

しかし、これは後世の研究者による解釈であり、正式な横綱免許が交付されたことを示す確実な証拠とは異なる。

もし雷電が特別な土俵入りを披露していたとしても、それだけで歴代横綱として正式に認定されていたと判断することはできない。

この点も、雷電の横綱問題が今なお歴史的な謎として語られる理由の一つだ。

【禁じ手伝説と関係者】張り手・鉄砲・かんぬきは本当に禁止された?

雷電には、強すぎるために得意技を封じられたという有名な伝説がある。

対象とされるのは、張り手、鉄砲、かんぬきの3つだ。

雷電の禁じ手とされた3つの技



1. 張り手(はりて)

手のひらで相手の顔や側頭部付近を打つ技。雷電の圧倒的な腕力と体格が組み合わされれば、相手に大きな衝撃を与えたと想像される。


2. 鉄砲(てっぽう)

現在でいう突っ張りにあたる技。相手の胸や肩などを手のひらで連続して突き、前進を阻んだり土俵際へ追い込んだりする。


3. 閂(かんぬき)

相手の両腕を外側から抱え込むようにして動きを封じる技。相手の腕や上半身を制する力が求められる。


この3つが伝説として語り継がれてきた背景には、雷電の並外れた怪力があった。

身長約197cm、体重約169kgという巨体から繰り出される張り手や突っ張りは、当時の力士にとって脅威だったと考えられる。

禁じ手伝説はどこから生まれたのか

ここで注目したいのが、相撲デジタル研究所の歴史資料解説だ。

同研究所によると、張り手・鉄砲・かんぬきの3つが禁じ手にされたという話は、雷電の現役時代の記録には見当たらない。

この逸話が確認できる重要な資料の一つは、雷電の没後37年にあたる文久元年(1861年)に、同郷の佐久間象山が作った碑文だという。

つまり、雷電が現役だった時代に正式な禁止令が出されていたことを示す同時代の記録と、後世に形成された伝説は区別する必要がある。

「雷電だけに3つの技が公式に禁止された」という話は、史実として確定していない。一方で、その怪力が後世の人々に強烈な印象を残し、禁じ手伝説を生み出したことは理解できる。

雷電為右衛門を取り巻く重要人物と関係性

雷電の生涯は、本人の強さだけでなく、師匠や藩主、ライバル、後世の研究者との関係からも理解できる。

人物・組織 雷電との関係 歴史的な意味
谷風梶之助 師匠・内弟子としての関係 雷電が相撲を学んだ大関。直接の対戦記録はない
松平治郷(不昧) 松江藩主・後援者 1788年に雷電を藩のお抱え力士として取り立てた
小野川喜三郎 同時代の横綱 谷風とともに1789年に横綱免許を受けた
花頂山(後の市野上) 強敵・対戦相手 雷電に複数回勝利した唯一の力士として紹介される
佐久間象山 後世の顕彰者 1861年の雷電に関する碑文で禁じ手伝説を伝えた

特に注目したいのが、谷風梶之助との関係だ。

谷風は雷電が相撲を学ぶうえで大きな影響を与えた人物であり、雷電はその内弟子として修行した。

そのため、2人は師弟関係にあり、直接対戦する機会はなかった。

一方、同時代の横綱・小野川喜三郎とは、雷電の時代を象徴する力士同士という関係にある。

また、東御市観光協会の資料では、花頂山(後の市野上)が雷電に2勝した唯一の力士として紹介されている。わずか10敗という記録の中で、特定の相手が複数回勝利している点は、雷電の対戦史を読み解く興味深いポイントだ。

【雷電日記と現在の史跡】生家・雷電資料館で分かる素顔

雷電の魅力は、土俵での圧倒的な強さだけではない。

実は、本人が書き残したとされる記録も重要な歴史資料になっている。

『諸国相撲控帳』と『萬御用覚帳』

雷電に関する代表的な記録として知られるのが、次の2つだ。

『諸国相撲控帳』

現役時代の巡業や興行に関する記録で、訪問した土地や相撲興行の内容などを伝えている。

『萬御用覚帳』

引退後、松江藩に関係する仕事に携わった時期の公務記録・覚書にあたる史料だ。

長野県立長野図書館が提供するレファレンス協同データベースでは、これらの古文書を解読し、現代語訳とともに紹介した書籍『雷電日記』(ベースボール・マガジン社、1999年)が案内されている。

また、『雷電為右衛門旅日記』という関連書籍もあり、雷電の巡業や引退後の活動を知るための資料として紹介されている。

こうした記録が興味深いのは、雷電が単なる怪力の持ち主ではなかったことを示している点だ。

巡業先や興行に関する情報を継続して記録するには、読み書きの能力だけでなく、物事を整理して残す習慣も必要になる。

相撲の実力と記録を残す知性を併せ持った人物だったことが、史料から浮かび上がる。

引退後は松江藩で後進の指導にも携わった

文化8年(1811年)に引退した雷電は、松江藩との関係を保ち続けた。

山陰中央新報の人物記事によると、引退後は松江藩の水軍の一員として城下の御船屋に住み、後進の力士の指導にも努めたという。

松江藩の「御船屋分見絵図」には「関為右衛門」という名前が記載されており、雷電の松江での暮らしを裏付ける手がかりになっている。

1825年(文政8年)、雷電は江戸で亡くなった。墓は江戸赤坂の報土寺にあり、松江市の西光寺にも墓が再建されている。また、松江市の月照寺には雷電の手形を刻んだ顕彰碑が残る。

雷電の生家は長野県東御市に現存

雷電の生まれ故郷である長野県東御市には、現在も生家が保存されている。

東御市の公式資料によると、雷電は寛政10年(1798年)に生家を50両を投じて改築した。その後、建物の老朽化に伴い、昭和59年(1984年)に解体復元されている。

この生家は昭和42年(1967年)3月27日に市史跡に指定された。

現在の見学情報は次のとおり。


力士雷電生家
市史跡

所在地
長野県東御市滋野乙1981-2


見学時間
9:00〜17:00


休館日
年中無休

東御市公式文化財情報。見学前には最新の案内を確認したい。

生家には土俵を設けた構造があり、当時の相撲文化を感じられる場所としても価値がある。

道の駅「雷電くるみの里」の雷電資料館

雷電についてさらに知りたい人には、東御市にある道の駅「雷電くるみの里」の雷電資料館もおすすめだ。

こちらは生家とは別の施設で、雷電ゆかりの資料や相撲文化に触れられる。

2026年11月時点で公式サイトに掲載されている案内は以下のとおり。

- 所在地:長野県東御市滋野乙4524-1
- 開館時間:9:00〜18:00
- 入館料:無料

東御市観光協会の資料によると、松平治郷から拝領した雷電所用の化粧まわしは、道の駅にレプリカが展示されている。

生家で雷電のルーツをたどり、資料館で力士としての姿や松江藩との関係を知るという順番で見学すると、人物像をより立体的に理解できる。

【プロの結論】雷電為右衛門はなぜ「最強大関」と評価されるのか

雷電為右衛門の評価を考える際、単に254勝10敗という数字だけを見るのでは不十分だ。

その強さを理解するためには、少なくとも3つの視点が必要になる。

1. 勝率だけでなく、長期間の安定性が突出している

一時的に連勝する力士は、どの時代にも存在する。

しかし、雷電は21年間にわたって第一線で活躍し、幕内35場所でわずか10敗しか記録しなかった。

これは一度の好調や偶然では説明しにくい実績だ。

巨体と怪力に加え、相撲における技術や状況判断、長期間にわたる競技能力が優れていたと考えられる。

2. 横綱という称号よりも実績が評価され続けた

雷電が横綱になれなかったことは、現代の感覚では不思議に映る。

しかし、当時は横綱免許が恒常的に与えられる制度ではなく、大関が番付の最高位だった。

その時代背景を考えれば、雷電を「横綱になれなかった力士」とだけ紹介するのは適切ではない。

雷電は横綱という称号を持たなかったが、実績では歴代横綱と比較される存在だった。

この違いを理解することが、雷電を正しく評価するための出発点になる。

3. 記録を残したことで、力士としての人間性も伝わっている

雷電の『諸国相撲控帳』や『萬御用覚帳』は、歴史研究にとって貴重な史料だ。

土俵上では圧倒的な力を誇りながら、巡業や興行、藩の仕事について細かく記録を残していた。

こうした一面は、怪力や禁じ手の伝説だけでは見えてこない。

雷電は強さだけでなく、知性や記録する能力も備えた人物だった。

2025年は雷電の没後200年にあたり、2026年も東御市の公式文化財情報や相撲協会の歴史紹介を通じて、その足跡をたどることができる。

雷電の歴史を学ぶなら、記録の数字、当時の相撲制度、本人が残した古文書という3つを併せて見ることが大切だ。

【雷電為右衛門】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:雷電為右衛門の読み方と本名は?

A1:読み方は「らいでんためえもん」。本名は関太郎吉とされ、幼名も太郎吉だった。明和4年(1767年)に現在の長野県東御市で生まれた。

Q2:雷電為右衛門の幕内成績と勝率は?

A2:幕内通算254勝10敗で、勝率は96.2%。日本相撲協会が紹介する通算記録には2分14預5無勝負も含まれる。現役生活は21年間、江戸本場所の在籍は35場所だった。

Q3:雷電為右衛門はなぜ横綱になれなかった?

A3:確定的な理由は分かっていない。当時の横綱は現在のような番付上の最高位ではなく、土俵入りに関する免許だった。横綱免許が継続的に与えられる制度も整っておらず、雷電は大関のまま引退した。

Q4:雷電為右衛門の禁じ手は本当に存在した?

A4:張り手・鉄砲・かんぬきの3つが禁じ手にされたという伝説は有名だが、現役時代の公式な禁止記録は確認されていない。雷電没後の文久元年(1861年)の碑文などに伝承が残っている。

Q5:雷電為右衛門の生家や資料館はどこにある?

A5:生家は長野県東御市滋野乙1981-2に現存する。また、道の駅「雷電くるみの里」には入場無料の雷電資料館があり、2026年の公式案内では9時から18時まで開館している。

雷電為右衛門は、明和4年(1767年)に信濃国大石村、現在の長野県東御市で生まれた江戸時代の大力士だ。松江藩主・松平治郷に取り立てられ、谷風梶之助の内弟子として修行を積み、1790年に江戸相撲で関脇デビュー。1795年に大関へ昇進し、1811年まで第一線で活躍した。

幕内254勝10敗、勝率96.2%という成績は、現代の大横綱と比較されるほど突出している。身長約197cm、体重約169kgという巨体や、張り手・鉄砲・かんぬきの禁じ手伝説も、雷電の名を後世に残した大きな要素だ。

一方、横綱になれなかった理由については、当時の制度や大名家の関係など複数の説があるものの、決定的な答えは見つかっていない。少なくとも、相手を殺したから横綱になれなかったという話を史実として扱うことはできない。

雷電を正しく理解するための判断基準は、①当時の制度と現代の制度を混同しないこと、②勝率の計算方法や取組制度の違いを理解すること、③禁じ手などの伝説と同時代の史料を区別することの3点だ。

横綱という称号を得られなかったにもかかわらず、200年以上にわたって最強力士の候補として名前が挙がる雷電為右衛門。その生涯は、相撲における本当の強さとは何かを考えさせる、日本スポーツ史に残る貴重な遺産である。

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小野寺 翔
トレンドリサーチャー 小野寺 翔
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アニメ・漫画の制作発表を担当。制作会社・出版社の公式告知と原作者コメントを確認してから記事化します。

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